「笑い」は知的作業/『落語的学問のすゝめ』桂文珍


 関西大学での講義を編んだもの。報酬の安さを何度も嘆いているのがご愛嬌。私は上方芸人はあまり好きじゃないのだが桂文珍は例外。この人は、「面白がる力」が図抜けている。


 この本で最も有名なのは以下の指摘――

 だいたい人間ちゅうのは、悲しい映画を一緒に見に行くと、泣く場所って決まってるんですね。だから涙腺を刺激するようなつくり方というのは簡単なんです。ところが、笑いというものは、人によってずいぶんとらえ方が違いまして、非常に個人差があるわけですね。(中略)
 まあ、どれがいいとか悪いとかいうことではなしに、それぞれ「笑いの尺度」というのは違ってますから、何を滑稽と思うかで、その人の性格がわかると。ですから、結婚しようかなと思う相手とは「ギャグもの」を見に行くことをお勧めします。ほいで、どこで笑うかで、こいつヘンなやっちゃなあとわかります(笑)。同じところで笑えるんであれば、これはほとんど感性、感覚が一緒ですからね、その人と結婚した方がラクです。いいですね、同じところで笑えるというのはものすごく大事なことなんですよ。


【『落語的学問のすゝめ』桂文珍講談社+α文庫)】


 テレビやラジオでさりげなくこの話が出るということは、既に常識と化した感がある。最初に読んだのは二十歳(はたち)の頃だが、物語の基本が悲劇である理由がこの一文でわかった。


 泣かせるのは感情に訴えればいいわけで、悲しみを支えているのは「孤独」である。ってことは、別れや差別などがモチーフになりやすい。一方、笑わせる場合は、常識という前提を確認した上で、それを破壊する必要がある。落語でいうところの「下げ」や「落ち」は、常識との落差を示している。


 今時の笑いは、勢いに任せているだけで知性が見受けられない。ドタバタ的な要素が強く、毒が少ない。それどころか、知名度がアップするに連れて、「笑ってもらえる」ようになっている雰囲気まである。劣悪なものになると、イジメ的要素が盛り込まれている。


 文化の成熟度が笑いにあるとすれば、もっと多様な笑いの形があってしかるべきだろう。


落語的学問のすゝめ (講談社+α文庫)