振り返ると小学生の時分から濫読に次ぐ濫読を繰り返して今日に至っている。本を読まなかった時期は古本屋を立ち上げてからのこと。やはり、読み物から売り物に変わってしまったことが大きい。いつ手元から巣立ってゆくかわからぬ本を読む気にはなれなかった。
数年前から本業関連の本を読み漁り、続いて経済書をひもといた。そして、福岡伸一の『もう牛を食べても安心か』が読書意欲に火を点け、マーク・ブキャナンの『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』で爆発した。今年は多分250冊以上読破しているだろう。
努めて濫読(らんどく)さえすれば、濫読になんの害もない。むしろ濫読の一時期を持たなかった者には、後年、読書がほんとうに楽しみになるということも容易ではあるまいとさえ思われる。読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪(むさぼ)るように読むことで養われるほかはないからである。
数多くの本を読み抜くと、興味や知識の根っこがどんどん枝分かれし、養分を求めては地中深くへ伸びてゆく。こうして心に響いた言葉同士が共鳴音を奏でる。ジャンルの異なる本の中に共通点を見つけるのは決して珍しいことではない。この「つながる快感」から新しいアイディアが生まれる。目の前が開けるような思いになるのは、知恵の閃光が脳内でほとばしっているためだろう。