精神科医の襟度/『精神科医になる 患者を〈わかる〉ということ』熊木徹夫


 実にわかりやすい文章である。きっと普段から「わかりやすくあろう」と努めているのだろう。明晰というよりは誠実。患者の前に立つ自分自身に対して自問自答を繰り返す様子すら窺える。この若さで中々できるものではない。


 以下の指摘は重要――

 そもそも、精神科臨床の方法論にのっとり、個々の症例について厳密に「物語」を紡いでゆくなら、その延長線上に社会へ向けての「物語」など成り立たず、安直な社会評論はできないはずである。このようなことを続けていると、いつか社会の側から精神科のあり方に疑問が発せられ、精神科臨床の方法論の基礎が掘り崩される時がくるだろう。これは精神科だけでなく、ひいては社会の損失のはずである。
 さらにこのような精神科医には、自らの専門性のおおもとである「物語」作成のすべを臨床から転用して、すべての社会事象に説明を与えようとする〈説明強迫〉傾向の強い人々が多い印象を受ける。実はこの〈説明強迫〉もよくない。精神科医がある犯罪者の奇行に説明をつけることにより、本人の独善的行状に社会的容認を与えてしまっている可能性がある。言葉による現象の追認にすぎないと思われるものも多い。わらかないものは説明せず「わからない」と話す勇気も必要ではないか。
 あらゆる社会事象に心理学的な説明が求められるということもあるだろう。しかし、そういう今だからこそ、精神科医の責任は重大である。いたずらに精神科患者の範疇を拡張しないように、各々の医師が心してゆかねばならない。本当に精神科医療が手をさしのべるべき相手はだれか。それをしっかり意識すべきである。加えて一般の方々も、自らが精神科の医療サービスを受ける立場になるかもしれないことを想定して、先に示したような事情に自覚的になれるとよいだろう。「物語」の逸脱に対し抑制の働く治療者を、選びとる眼を皆がもてるようになるならば、精神科医各人も襟を正さずにはいられなくなるはずである。


【『精神科医になる 患者を〈わかる〉ということ』熊木徹夫(中公新書、2004年)】


 穏やかな表現でありながらも、手厳しい内容となっている。「分を弁えろ」ということだろう。特に昨今は、猟奇的な犯罪が社会全体の病理として現われるといった説明が目立つ。メディアというメディアは、社会が悪い方向へ進むことを望んでいるような節すら感じる。統計は不問に付され、極端なまでに異常性にスポットライトを当てる。そして視聴者は、日常で溜まりに溜まった鬱屈をガス抜きするのだ。


 ま、恐怖や不安をテコにするところは、インチキ宗教の手口そっくりだわな。「どうして、これほど悲惨な事件が起きてしまったのでしょう?」と語るお前が「どうして、テレビカメラの前で金を稼げるのでしょう?」と私は言っておきたい。大衆消費社会は、大衆から「拒絶する権利」を奪い去った。大衆は常に選択を強いられる。それがたとえ、ウンコやゲロであったとしてもだ。


 話を元に戻そう。精神科で治療を受けている人がいれば、次の点をよく考えるべきだ。まず、藪医者が多い。次に、効果があるから投薬しているわけではなく、取り敢えず試験的に薬を出しているということ。これは致し方ない側面もあるけどね。しかも一番恐ろしいのは、どんな副作用があるかわからないことだ。薬というものは、健康な人が服用すれば毒になることを忘れてはなるまい。また、心の病が脳の病気であることも証明されているわけではない。これは、アメリカの製薬メーカーによる販売戦略として世界中に喧伝されたものだ。


精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)