古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

学問は目的であっても手段であってもならない/『社会認識の歩み』内田義彦


「一体全体、どっちなんだよ?」と言ってはいけない

 学問が手段化されることは、一人一人の人間が手段化されることと無関係ではありません。学問は、自己目的であってはならないけれども、単なる手段であってもならない。学問の自己目的化と手段化という古くからの難関は、実は、社会を成して生きている個々の人間と社会とがどうかかわっているか、どうかかわるべきかということと深いところで結びついています。人間は孤立した存在ではないけれども、集団の単なる構成要素でもない。一人一人の人間が学問的思考を有効に身につける意味が、そこにあるのです。


【『社会認識の歩み』内田義彦(岩波新書、1971年)】


 学問は手段化されている。東大法学部によって。社会での成功は君達のものだ。好きなだけ日本を牛耳ってくれたまえ。彼等にとっては、一身の栄誉栄達こそ学問の目的であろう。


 内田義彦が言いたいことは、「社会へと開かれた学問」(手段化の反対)であり、「より大きな目的に向かう学問」という意味なんだろうね。結局のところは、“学ぶ者の一念”に帰す。


 面倒臭い言い回しをしているのは、学問の動機を吟味しているためだ。「英知を磨くは何のため」――それは、より多くの人々を幸福にするためである。学問の世界にも、王道と覇道が存在する。


社会認識の歩み (岩波新書 青版 798)