古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

「聞く」と「話す」/『プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久

 人は話すのが好きだ。話すの語源は「放つ」。現在でも「言い放つ」と。身体の内側に溜まった何かを解き放ちたい欲求があるのだろう。中々面倒なのは、放った言葉をちゃんと受け止めてくれる人が必要なところ。独り言ではどうも満たされないようだ。


 また人間には、相手を動かしたがる性質がある。「話す」ことで動かそうとすると、意図的なコントロールになりがちだ。一方、「聞く」ことで動かす場合は、相手を自分の方へ手繰り寄せるような感覚がある。「身近」ってやつですな。


 雄弁は美徳である。しかしながら、一対一の会話で「雄弁」と相手を評価することは、まずない。どちらかといえば、「多弁」と嫌われるのが一般的だろう。雄弁とは演説であって、一方的な主張なんだろうね。

 神仏や聖人でないわれわれでも、話すことよりも聞くことをよしとするのは同じです。その証拠にわれわれは「しゃべりすぎた」という反省はよくしますが、「聞きすぎた」反省はほとんどしません。


【『プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久〈ひがしやま・ひろひさ〉(創元社、2000年)以下同】


 確かにそう言われてみれば頷ける。ということは「話し上手」よりも「聞き上手」を我々は心掛けるべきなのだろう。続く文章は以下――

 これは情報の発信者と受信者の行動を考えるとわかりやすいでしょう。情報の発信者は、受信者の反応が返ってこないことには、相手が情報をどう思ったかわからないのです。受信者は、情報の受け取りも放棄も、自分の気持ちしだいです。情報がいらなければ捨てることさえできるのです。いらないダイレクトメールのように。その意味で発信者が情報をコントロールしているように見えますが、じつは本当にコントロールしているのは、受信者のほうだといえるでしょう。


 つまり、「話す自由」よりも「聞かない自由」が勝るという意味だ。確かに「耳を塞ぎたくなる」ような話は多い(笑)。「右耳から左耳に抜けてゆく」話も多いよね(笑)。


 社会全体がストレスまみれになってくると、「些細なことを責め立てる」風潮が強まる。見知らぬ他人に対して攻撃的な言論がまかり通る。自分が傷をつけられる前に、相手に切り掛かろうとする。親は子供を責め立て、子供は弱いクラスメートをいじめ、いじめられた子供は自分の心を切り刻む。


 眼は閉じることができるが、耳は常に開いている。そう、耳の穴は宇宙につながっているのだ。耳を傾けることは、心を傾けることである。耳を傾けることは、相手に寄り添う姿勢である。一人ひとりが耳を澄ませば、世の中は少しずつ確実に変わってゆくことだろう。