古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

思想と対抗思想の違い/『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優、魚住昭

 佐藤優氏の著作を読むのはこれで2冊目。ウーム、麻薬のような習慣性に取りつかれそうだ。麻薬じゃマイナスイメージが強いから、「知的強壮剤」と命名しておこう。佐藤氏の言論は、大半の人々に「無知」を自覚させる。しかも、完膚なきまでに。その反動として、読者を次なる佐藤本に向かわせるのだ。もう、「先生」と呼びたくなっちゃうよね。


 ジャーナリストの魚住昭氏が聞き役を装っているが、実は案内役。多分、魚住氏をもってしても、佐藤氏と殴り合うだけの知識を持ち合わせていなかったのだろう。しかし、それが結果的に読者に親切な構成となっている。これも対話の妙か。


 マルクス主義・神学という包丁を使って佐藤氏はナショナリズムをさばく。読者の目の前には、「ナショナリズムの船盛り」が用意されている。我々は「ホホウ、見事な出来栄えですなあ」と言いながらも、食べる自信がない。それほどの咀嚼力を持ってないためだ(笑)。

魚住●まず議論の前提として思想とは何かという話から始めましょう。私の中にはとても浅薄だけど拭いがたい疑念があります。それはいくら思想、思想と言っても、戦前の左翼のように苛烈な弾圧にあえばすぐ転向しちゃうのじゃないかということです。特に私のように臆病な人間がいくら思想をうんぬんしたところで仕方がないんじゃないかと。


佐藤●魚住さんがおっしゃる「思想」というのは、正確には「対抗思想」なんですよ。


魚住●どういうこと?


佐藤●いま、コーヒーを飲んでますよね。いくらでしたか? 200円払いましたよね。この、コイン1枚でコーヒーが買えることに疑念を持たないことが「思想」なんです。そんなもの思想だなんて考えてもいない。当たり前だと思っていることこそ「思想」で、ふだん私たちが思想、思想と口にしているのは「対抗思想」です。護憲運動や反戦運動にしても、それらは全部「対抗思想」なんです。


【『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優〈さとう・まさる〉、魚住昭〈うおずみ・あきら〉(朝日新聞社、2006年朝日文庫、2010年)】


 魚住氏があとがきでも紹介している件(くだり)。相当なインパクトがあったことは容易に理解できる。本物の思想とは、意識することなく行動原理になっているという指摘は鋭い。思想とは、「生きる」ものであって、「まとう」ものではないということだ。レベルの低い自分を、高く見せかけるための意図的な言動は、すべて「対抗思想」と言えそうだ。


 佐藤氏の博覧強記はアニメにまで及ぶ。同志社大学で神学を修めたクリスチャンであるにもかかわらず、イエス・キリストのことを「ずるいおっさん」と呼び、『ゲゲゲの鬼太郎』の「ねずみ男」に例える。

魚住●じゃあ、ウサマ・ビンラディン的なありかたをイエスのようにキャラクターにたとえると何になりますか。


佐藤●星飛雄馬ですね。


魚住●『巨人の星』の?


佐藤●ええ。ストーリーを思い出してください。飛雄馬は「思い込んだら試練の道を」行きますよね。その行路には内省の契機を見出せません。そしてその道を進めば進むほど、親友であるはずの伴宙太との関係もメチャクチャになるし、飛雄馬をとりまく人々の恋愛はうまくいかなくなります。最後は彼自身も廃人になる。本人は「主観的には」いいことをやっていると思い、正義の実現に走っていても「客観的には」周囲の関係性は壊れ、破滅してしまう。ですから、私はウサマ・ビンラディン的な「星飛雄馬」とイエス的な「ねずみ男」どっちの生き方を選ぶかと聞かれたら、ためらうことなく、ずるい「ねずみ男」を選びますね。


 見事なカテゴライズ。これほど鮮やかな例えを示されると、物語における役どころがスッと理解できる。


 普通、該博な知識があると、鼻持ちならない印象を抱きそうなもんだが、佐藤氏からはそういったものが全く感じられない。それは、世界を読み解き、歴史を俯瞰しながらも、彼が人間に寄り添う視線と愛国心を失ってないためだろう。これほど優れた人物を斬って捨てた外務省というのは、やっぱり馬鹿の集まりなんだろうね。