認知症の恐怖

 先日、テレビで認知症のドキュメントが放映されていた。孫がハンディカメラで撮影していたこともあって頗(すこぶる)るつきの迫真性に溢れていた。登場人物は母親と娘と孫の3人。


 日中は頭が正常に機能しているオバアサンが夜になると記憶障害が現れる。自分の娘を指差し「この人、誰?」と撮影している孫に尋ねる。「このまま症状が重くなり、いつの日か自分のことを娘だと理解できなくなる時が来るに違いない」と覚悟を語りながらも涙を流す姿が痛々しい。


 私はゾッとしながらもここに人間関係を見直す鍵があると察した。


 俗に「血より濃いものはない」と言われる。果たして本当だろうか? 私はそうは思わない。ただ単にそう信じさせられている人々が多いだけの話だろう。だったらどうして親を殺す子が何人もいるんだ? おかしいじゃないか。


 時折、赤ん坊が入れ替わっていたってニュースがありますな。何十年も経ってから判明し、結局いままで通りの親子関係を維持するケースが多いと記憶している。この場合、実の親子じゃなかったとわかるまで親子であると固く信じていたわけで、客観的には赤の他人なのだ。だから実の親子じゃなくても、親子だと信じていればいいってことになりますわな。


「養子を育てるのは難しい」って話もよく聞きますな。こういう連中に限って養子は育てられない癖にハムスターをきちんと育てたりしているものだ(笑)。


 つまり親子ってえのあ単なる約束事に過ぎないってことだ。その約束事にアイデンティティが支えられているってだけの話。ねちっこくいえば「俺は、この両親の子供だ」ってことが、自分の存在証明になっているわけだ。するってえとこれはコンプレックスの裏返しにもなりかねない。だってそうだろ? 「俺は俺だ」と生きていりゃ、誰が親だって大した構わないはずだもんね。


 話が横道に逸(そ)れてしまった。


 家族にとっての認知症の恐怖は「自分が忘れ去られてしまう」ということに尽きる。で、当の本人の恐怖は「自分が自分でなくなる」というもの。まあ確かに自分の親から「あんた、だあれ?」と言われりゃショックを受ける。双方が認知症になりゃ丸く収まるんだけどね。


 老化による記憶障害は失見当識となって現れる。失見当識とは時間的・空間的認識の障害のことで、「私は誰? ここは、どこ?」状態になること。入院しているにもかかわらず病院にいることを認めないような症状。


 だがよくよく考えてみると、この状態は人生の命題と同じものである。人間は生まれながらにして失見当識といえるかも知れない。


 何だか考えが上手くまとまらなくなってしまったが、要はこういうことだ。親が自分のことを理解できなくなったとしても、自分が子としての生きざまを貫けばいいのだ。過去の記憶が葬られてしまったんだから、今を充実させればいいだけの話だ。それに耐えられないなら、姥(うば)捨て山にでも運ぶしかありませんな。その選択が誤りだというつもりはない。


「士は己を知るもののために死す」というが、それは単なる記憶という次元ではないはずだ。相手の生命を我が生命に刻印するような作業が不可欠だ。