ベトナム政府と、圧倒的な軍事力で蹂躙してくるアメリカに抗議するため、ガソリンをかぶってわが身を焼いたのだという。ふるえがきた。誇らしかった。噴きあがる炎が、まったく異なる精神のかたちに見えた。蓮の花のようなアジアの思想が、過激なまでに開花しているのだと思った。
若き日にアメリカで不法滞在を続けていた著者は、散乱する新聞の写真に釘づけとなる。ベトナム人僧侶が燃え盛る炎の中で静かに端座していた。
その人が火に包まれ、脳がぐらぐら煮えたぎってきたとき、その人格とは何だったのか。
世界を旅し続けてきた著者は、57歳になってベトナムへ飛ぶ。炎の中の真実を確かめるために。
不思議な作品である。所々で文章がキラリと光るのだが、私の好きな文体ではない。ベトナム現地で目的に向かいながらも、常に過去の自分を振り返る。前に進みながら、顔を後ろへ向けているような“ねじれ”がある。
咲いては散り、また咲きこぼれてくる熱帯の花のように人は人の股から生まれ、とめどなく地に湧きだしてくる。
眼に映るベトナムの風物が肉感的に描かれ、自分の中に潜む性欲をさらけ出す。それらが結果的に、焼身自殺をした僧侶との対比となってしまい、著者や読者との懸隔が広がる。それはあたかも、仏教で説かれる欲界と無色界のようだ。
著者は幸運な出会いを重ねて、次々と僧侶の情報を入手してゆく。そしてラストでは、作家の武器である想像力を駆使して、炎の中で人生にピリオドを打ったティック・クアン・ドゥックに迫ろうと試みる。この件(くだり)は劇的だ。
ただ、どうしてものめり込めないのは、死者と生者が固定的な関係となり、著者の知的興味の対象で終わっているような印象を受けてしまうためだ。つまり、事実が詳(つまび)らかになるごとに、著者の生き方が変化するドラマが全くないのだ。これは多分、還暦に近い年齢とも関係があるのだろう。
しかも、聖僧を取り巻く連中が、その死をも政治的に利用していた。僧侶を包む炎は、まるで、この世が火宅であることを照らし出す光のようだ。