森達也インタビュー 2

メディアにおける「タブー」とは何か


――テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、と、いろいろメディアに種類がありますが、マスメディアの側の壁の厚さってものは、強まっているのか、弱まっているのか、感じられることはありますか。


森●うーん、難しいんですねえ。「放送禁止歌」はフジテレビだけで3回、ローカルも大阪で2回やって広島や北海道とかあっちこっちでやってるんですよ、単純計算すると、100万人くらいが視聴している計算になる。『A』は1万人です。見た人数も全然違うし、「放送禁止歌」のときには朝日読売毎日とも大きく紹介されて、読売は「人」欄で取り上げてくれたんです。週刊文春なんて大特集組んでくれたりとか。
 しかし、「放送禁止歌」の取材のときにも、ぼくは『A』のことも触れて欲しいんですよね。だから、一生懸命「オウム」について喋る。


――うん、それはそうですよね。


森●しかし、ほとんどの媒体で、「オウム」に関しては完全にカットされます。なぜか。
放送禁止歌」の場合は、部落差別や天皇制や、すでにメディアのなかでタブーとして認識されている問題が包含されています。


――はい。


森●でも、というか、だから、というか、すでに「これはタブーなんだ」と認知されているものは、逆に触りやすいんですよ。


――あー、そうか。


森●「オウム」は、まだ「タブーだ」と、オーソライズされていない。「非常に危険なもの」なんだ、としてしか理解されていない。


――隔離する回路が決まったもの(「これはタブーなんだ」)には触れることができる。しかし、オーディエンスが「自分で考えて決める」必要がある問題については、触れることができない。ということなんですかねえ。


森●うーん、そういうことかも知れないですねえ。


【※メディアにおけるタブーとは、すでに「これはタブーである」と社会的合意が形成されたものであり、だからこそメディアはタブーを取り上げることが出来る。この指摘はそのまま、メディアは「ほんとうのタブー」を取り上げることができない、という事実を逆証明する。だから、以下で述べられているような森の感性は、「ほんとうのタブー」に触れているがゆえに、押し潰されてしまう】




 たった一回だが、青山総本部の中で接した彼らの日常に、危険で凶悪という雰囲気を僕はどうしても嗅ぎとることができなかった。


 上祐や青山などという有名人たちだけではない。


 扉の脇で監視モニターを凝視していた男性信者、通路で擦れ違った初老の女性信者、車座になって楽しそうに雑談をしていた20歳そこそこといった感じの信者たち、どの一人をとっても邪気らしきものはまったく感じとれなかった。(11p)

『A』『A2』の印象の違い


――『A』と『A2』とを観て、『A2』の方に、出口がない辛さ、のようなものを感じたんですね。人によって見方が全然違うと思うんですけど。
 なんでそういう感じ方をしたのかな、と考えると、それは終わり方に象徴されていて、『A』は、荒木が郷里でおばあちゃんとか家族と会って、電車に乗ってまた東京、つまり戦場に帰るシーンで終わる。その映像に、なんだか希望を感じさせる音楽がかぶさって映画が終わるじゃないですか。


森●ええ。


――ぼくは、ここは少し脱線しますが、メディア内の通念からすると、ぼくは「ああ、郷里の実家までカメラがついていくんだな、どんな家庭なのかな」と無意識のうちに考えていたんですね。
 でも、カメラは駅で待っている。家庭に、ほんとは一番“絵になる”であろう場所に、カメラが踏み込まなかった。「BOX東中野」ではじめて見た時、ぼくはそこにむちゃくちゃ感動しました。


森●ああ、そうですか。


――すごく、すがすがしさというか、「そんなとこまで土足で踏み込まなくても、伝えたいことは伝えてみせるゼ」といった、表現者としての矜持のようなものを強く感じました。


森●それはありがとうございます。


――いっぽう、『A2』のラストは、音楽もなく、コンクリートの上を無言で歩いていく複数の信者の後ろ姿で終わります。
 また、ラスト近くに、森さんが信者たちに対して、“(オウムと社会との関係は)このままじゃだめじゃないか”と、こんな、決着がつかないかたちでの決着のつき方でいいのか、と問いつめるシーンがありますね。画面から、すごく息苦しさが伝わってきた。
 そういういくつかの理由で、『A』よりも『A2』の方が、より救いのない感じがしたんですね。わずか数年でも、すごく時代が変化した、ということもあるのでしょうが。作り手としては、意図的にこうした違いを出されたのでしょうか。それとも、意図せざるものなのでしょうか。


森●うーん、たぶん同じテーマの裏表だと思うんです。『A』では、荒木浩という一人の人間が、肉親への情感を自らの裡に取り戻す、その過程をぼくはエンディングにもってきたわけですよね。で、あくまでも荒木浩という「個」のなかで映画を完結させようと思ったんですよ。


――あ、そうか。


森●『A2』の方はもう一度、荒木浩という人間を取り上げながら、彼の「個」というよりも、彼の個を取り囲んでいる「社会」、日本社会ですよね、そっちに視点がいっている。すると、『A』のときのように、牧歌的にはなれないですよね。
 取り戻せる、ということに関して言えば、『A2』の方が絶望感は強い。
 ぼくは、親子の情感に関しては、それを取り戻せればある意味で違う局面があらわれるもんだ、と『A』のときには思っていたし、実際にそれは実感できたし、たぶん荒木もあの瞬間何かに気づいたはずだし、それはいまでも確信しているんですけど、「A2」の場合は、最後の方でいま竹山さんがおっしゃったような疑問をぼくが投げかけて、彼らは答えきれない。
 でも、「このままでいいのかよ」という疑問は、「オウム」と社会と、両方に対してぼくは投げかけたいし、たぶん社会からもあの問いに対する答えは返ってこないでしょう。ぼく自身もその答えを持っていない。そうした不毛感は『A2』の方が強いでしょうね。


――ああ、「不毛感」ですね。


森●社会を主語にすれば、ほんとは『A』も『A2』も閉塞感は違わないけど、『A』の場合はさっきも申したように「個」に芽ばえた情感をラストにもってきた分、まだ映画としてのカタルシスは一応あったんでしょうね。
『A2』の最後も、ほんとは音楽をつけたかったんですよ。でも、こういう終わり方だったら、音楽は使わない方がいいな、と。


【「Publicity」より転載】


森達也インタビュー 3