湾岸戦争では国民1人あたり1万円を負担したが、この巨額支援にも世界の評価は低かった。侵略から救われたクウェートは、米紙に「ありがとう地球家族の国々」と広告を出したが、挙げた30か国に日本の名前はない。支援が資金面に偏ったこと以上に、地球家族の一員としての強い決意を世界へ発信できなかった失敗だろう。
【「編集手帳」読売新聞 9月21日付】
▼そして読売新聞では毎日、夕刊一面のコラム「よみうり寸評」にて参戦ムードを盛り上げるのに余念がない▼湾岸戦争時の「トゥー・リトル、トゥー・レイト(少な過ぎる、遅過ぎる)」という米首脳の発言も先日、紹介されていた▼21日付の朝刊では「テロリストは国家とは違う。話し合いのみで平和に解決すべきだという論調は非常におかしい」との山内昌之東大教授の寄稿が▼米同時多発テロに関する読売の論調は、大本営発表を垂れ流していた半世紀前を思わせるほどだ▼「編集手帳」子が言っているのは、「世界から高い評価を得るためなら、なんでもしよう」という阿諛追従(あゆついしょう)に過ぎない。更にクウェートから認められなければ地球家族の一員ではないと思い込んでいるのは読売さんだけではないのか?▼私を含めた平和的解決を望む多くの人々が抱いているのは、暴力や殺人を否定する極めて常識的な感覚なのだ。特定の理由があれば、罪なき人を巻き添えにする戦争行為が許されるのか、という疑問に他ならない▼私は、山内某に窺いたい。では、ある個人が不意打ちの暴力に襲われた場合、どうすべきであると考えているのか、と▼国際間の政治力学から見れば、国を挙げて応援すべきかもしれない。また、戦争後の国際経済への影響を鑑みれば、財政的な支援も惜しむべきではないだろう▼だが、そんな思惑は真っ平御免だ。いつまでも金魚の糞みたいにアメリカのケツを追い回すのはやめたらどうなんだ▼世界の目を気にし、後で何を言われるかを恐れ、仲間外れにされることに戦々恐々とする国なんぞが、所詮、何をやったところで、どこの国からも信用されませんよーだ。