古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

向井敏と中野翠

 前に紹介した丸谷才一の『思考のレッスン』(文藝春秋)にこういうくだりがあった。「思考の準備において最も大切なのは読書である。そして、読書のコツは、その本を面白がること。面白くない本は読むべからず」(趣意)。更に本の選び方として「書評を読む。面白い書評があったら、それを書いた人の作品も読んでみる。ひいき筋の書評家をもつことも大切である」(趣意)。


 我が意を得たりと膝を打ち、早速、向井敏の『真夜中の喝采』(講談社)をパラリとめくった。同人誌『えんぴつ』の盟友だった開高健谷沢永一等と較べるとやや地味な存在だが、向井のバランス感覚が一等抜きん出ている。なあんて理屈をつけてみるものの、本の嗜好が私と合っているのが最大の魅力。


 寝しなにパラパラとめるってみる。

 ほめられた当人があっけにとられるような筋違いの讃辞をつらねる人がいるものだが、その道の大家といえば、まず加藤周一の名をあげなくてはなるまい。いったいこの人は、反体制、反権力でありさえすればやみくもに持ちあげるという偏った性癖の持主で、そのうえ、どこをどう押せばあんなにも無味乾燥な文章が出てくるのか、何か不思議な作文技術を身につけていて、とてもまともにつきあえたものではない。


 朝日新聞に連載されいている加藤周一の『夕陽妄語』を最後まで読めた試しがない私は快哉を上げた。「いいぞぉー、向井!」などと布団の中で声に出し、拳を振り上げる。


 読み進む内に「書評の条件」なるタイトルに遭遇した。新刊の書評を手掛けることが多いが、機会を逸して数ヵ月後に筆を起こす場合がある。そういう場合、既に発表された書評にできるだけ目を通すという。これは参考にするのではなくして、同じ内容となることを避けるため。で、

 そんなとき、いちばん頭をかかえるのは、おみごとというしかない名評に出会うことである。急所をおさえて類なくあざやかな、あるいは瀟洒このうえない語り口の書評がすでにあるというのに、及ばぬことを承知でのこのこ出ていくというのは、これは相当な勇気を必要とする。その手の勇気を持ちあわせていない私などはたちまち意気阻喪して、書くのをあきらめてしまうことになる。

 もっとも、こんなことはそうしばしば起きるものではない。起きては困る。ところが、ついさきごろ、そのめったにない事態に出くわした。


「ほほうー。そやつは誰かな?」と私。


 取り上げられた本は丸谷才一の『男ごころ』。あっしも読みましたぜ、旦那。『思考のレッスン』なんぞよりも遥かに面白かった記憶がある。『低空飛行』と併せてお気に入りッスよ。


 で、ここまで向井を脅かし「千に一つといいたいくらいのしゃれた書評」とまで言わさしめた相手は――何と!!! 中野翠だった! 十本指でピアノの低音階を鳴らしたような音が頭の中で響き、呆気にとられた私の口からはよだれが流れ落ちた(布団の中で横になって読んでいた)。ジーパン刑事の最期の科白(「なんじゃい、これは!」)をやろうかと考えたが、時間が遅過ぎた。


 実は以前、中野翠の『私の青空』(毎日新聞社)か何かを読んで挫折した経験があった。それ以来、中野翠を私は馬鹿にしていたのだった。その上、名前の印象から勝手に若い女だと決めつけていたのだ。


 向井にそこまで言わさしめたのだから、これはもう読むしかあるまい。私は図書館へ走った。1分30秒後には図書館に到着し、2分後には中野翠の本を手にしていた。


 あった、あった、ありましたよ! 向井が絶賛していたくだんの書評が。「ふうむ、確かに面白い」。『ムテッポー文学館』は中野翠を見直す一書となった。更にページをめくると、どうやら中野はオバサンのようだ。取り上げられた本は硬軟併せて幅が広く、書評はいずれも自分のスタンスを堅持している。「翠オバサン、好いじゃーん」。


 幸田露伴の『五重塔』を評した冒頭にこうある。

 4〜5年前、にわかに古典落語に興味を持ち、カセットテープを次々に買って、集中的に聴いたことがあった。夜眠るときはテープをオートリバースにして、繰り返し聴きながら眠る。3日目くらいで、別の新しいテープが欲しくなる。「ヤクが切れた、ヤクが……」と中毒患者みたいな気分になって、テープを買いに走るという日々。


 何と私が現在かかっている病そのものだった。ここのところ毎晩のように古今亭志ん生のカセットテープを聴いているのだ。中野翠、恐るべし! 私は、年上で同じ誕生日の人と出会ったかのように気を好くした。


 丸谷の本から出発し、丸谷の作品の書評によって、私の新たな触手が伸びた。なんとも不思議なホップ・ステップ・ジャンプでござんした。