古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

クルクル回るパラソルに思う


 3月8日付朝日新聞一面にカラフルな傘の写真が掲載されていた。「緊張の一投 目くらまし」との見出し。副題は「パスケ応援、米国風」。


 つまりだ。これはバスケットの試合で、フリースローをする選手の集中力を妨げる目的で、応援席にいる大勢の連中が渦巻き模様の入った傘をグルグルと回している光景だったのだ。


 記事によれば、NBAでも同様の妨害があるそうだ。主催者側の見解は「選手に危害を与えていないので規制はしていない」とのこと。


 気分が悪くなった。愚劣な行為に怒りすら覚えた。私がバスケットの試合を見にゆくことは一生ないだろうが、それにしても許し難い。こういうことを平気で行う連中の親の顔が見たいものだ。


 彼等が選手のプレーを妨げる汚い手を正当化している論理は何か。本家本元で行われているという事実が罪悪感をなし崩しにしたのは疑問の余地が無い。また、応援するチームが勝利を収めた際に、自分達の存在を高めるとでも考えたのだろうか?


 こういう手合いは、ルールというものを根本的に履き違えている。本末を転倒してはばからない彼等の思考は、人生にまで波及しているだろう。否、彼等の生き方が“傘”に象徴されたのだろう。


 フリースローが失敗すれば、彼等は欣喜雀躍し、あたかもゲームに参加しているような錯覚を覚え、相手選手を口汚く罵るのだろう。


 そうした行為が、自分達の応援するチームの実力を否定していることに気づかないのだろうか。それとも双方が同じ行為を繰り返しているのだろうか。


 お祭り騒ぎは他の場所でやるべきだ。所詮、彼等は生活で溜まりに溜まった鬱積をこうした形で発散しているだけに過ぎないのだ。自分の頭で判断する能力を失った応援席にファシズムの温床を見た。帝国主義者の子孫達が無邪気に傘を回している。