「女湯」石垣りん
一九五八年元旦の午前0時
ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
ぎっしりと芋を洗う盛況。
脂(あぶら)と垢(あか)で茶ににごり
毛などからむ藻(も)のようなものがただよう
湯舟の湯
を盛り上げ、あふれさせる
はいっている人間の血の多量、
それら満潮の岸に
たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
新しい年にむかって泡の中からヴィナスが生まれる。
これは東京の、とある町の片隅
庶民のくらしのなかのはかない伝説である。
つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
と、ゴマジオ色のパーマネントが
あざらしのような洗い髪で外界へ出ていった
過去と未来の二枚貝のあいだから
片手を前にあてて
どうです、好いでしょう? これこそハードボイルドですなあ。
正月の準備を済ませて深夜に銭湯へ足を運ぶのは、まあ、若い女性じゃありませんな。40代、50代の母親か。市井の平凡な女性が一年間の垢(あか)を洗い落とした姿を「新しい年にむかって泡の中からヴィナスが生まれる。」なんて謳い上げるところが素晴らしい。表面的な美しさではなく、美しい存在そのものが描かれている。ポール・ギャリコの『雪のひとひら』(新潮社)を凌駕するものを感じた。
一片の詩が、忘れられない秋となる――。