落ち葉


 小説の好みは人によって様々であり、何に対して痺れるかは人それぞれの見解があろう。あるいはまた、小説などという作り事は読むに値せず、とする人もまま見受けられる。そこには、作家が勝手気ままに、都合良くストーリーをデッチ上げることへの侮蔑が感じられる。だが、ノンフィクションであっても、ある人間の視点から書かれている以上は「ひとつの見方」に過ぎない。別の人間が書けば、全く異質の物語が生まれようというものだ。であればこそ、小説という形式でなければ表現し得ない世界が確かにある。


 小説は大別すれば「現実志向」と「夢物語」の二つになろうか。私は夢物語を否定はしない。そこに描かれている世界は、現実から生み出された願望が込められているが故に共感を呼ぶのであろう。


 丸山は「現実志向」である。作家といえどもストーリーを勝手にこねくり回すことは断じて許されないとの自戒を述べている。


 私が丸山の作品に痺れる最大の要素は、象徴的なワン・センテンスに凝縮した「自立」への求心力だ。それは、多勢を恃(たの)み安んじることを拒否する精神である。また、本物の感動を自分の手で掴もうとする姿勢である。


 幾何学的な修飾を施され、善悪を断じ、生々しい科白がちりばめられ、色鮮やかな小道具が用意される。

 私は落ち葉だ。


 一枚の落ち葉が風に運ばれ、世一の部屋飛びこみ、オオルリを驚かせる。世一は病のために震えが止まらぬ指で、落ち葉に鋏(はさみ)を入れる。

 少年はきっと、私を鳥の姿にしたかったに違いない。しかし、全身に及ぶ絶え間ない痙攣(けいれん)のせいで、似ても似つかぬ形になってしまう。表側はカオス、裏側はコスモス、さもなければその反対、だが全体としては、やはりただの朽ちかけた葉っぱにすぎない。


 混沌(カオス)と調和(コスモス)が表裏を成すのは人の世も全く同じである。世一の無垢なる魂は人の世すら掴まえ、鋏を入れる。裏と表がどっちかわからず、風に左右され、浮いたり沈んだりを繰り返すのは、世一を見下す人間達である。世一はオオルリから、風によって飛ばされるのではなくして、自ら飛翔することを日々学ぶ。



千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)