丸山は現状維持に安住する小市民の描き方が非常に巧い。向上心なき人間を辛辣な表現で串刺しにする。その激しさが戯画的な効果を生み、操り人形を見せられているような気になってしまう。
私は靴だ。
踵が摩滅し、とうとうつま先の部分がぱっくりと割れた、如何にも勤め人向きの靴だ。
靴が語るのは世一の父である。
小春日和の午後、私は私よりも数倍くたびれて風采のあがらない男と一緒にバスを下りた。
世一の父親は、まほろ町役場に勤務している。「勤め人向きの靴」とは、機能本意で、歩く目的にのみ使用されるという含みがあるのだろう。そのなれの果ては、いつでも取り換えが可能ということになろうか。靴にまで見下される世一の父は現代社会のサラリーマンの象徴だ。
寿命の尽きた靴を尻目に彼は「雨を弾くという新製品」を買う。クラリーノの一語で片付けないところが憎い。安物ではあるが店の看板商品を買うことによって、そこはかとなく享受された喜びが伝わってくる。
古い靴を小脇に抱え、世一の父は上機嫌で店を出る。
だが、そう長くはつづかなかった。男は私のほかには何ひとつ変えられない立場を悟った。悟った瞬間、鬘(かつら)をつけた彼の脳天に、婚期を逃しつつある長女と、不治の病に冒された長男と、3年後に迫った定年退職後のことがぐさりと突き刺さった。
丸山の筆は、取るに足らない喜びを木っ端微塵に打ち砕き、何ひとつ変わらぬ現実に引きずり戻す。
夜空の彼方に輝く星のような夢を見るのではなく、足元の家族・生活に根を下ろした考え方はいつもと変わらない。その現実を変える意欲がなければ“生きている”とは言えない。自分が今存在するその場所から変化の波を起こせなければ“いても、いなくても一緒”だろう。“かけがえのなさ”は確固たる目標に挑戦しゆく中から育まれるものだ(と書きながら、自分の青臭さに御満悦の古書店主であった)。
苦役から解き放たれた私は袋ごと屑籠に投げこまれ、大量生産された靴としての、靴らしい一生を終えた。男の足音が遠のき、コオロギが鳴き出した。
「屑籠に投げこまれ」るような一生。死んですらも何一つ変わらぬ現実。コオロギの鳴き声は、嗤(わら)っているのだろうか。それとも、泣き悲しんでいるのだろうか。