古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

胃カメラ奮戦記


 振り返ると実に様々なものを飲んできたが、いまだに飲んだことがないものがあった──胃カメラだ。出来ることなら飲まずに済ませたかった。口に苦い良薬であれば、まだ我慢のしようもある。胃で消化され患部を治療すべく体内に溶け込むのだから。


 また、飲むに飲めない条件だって、解釈のしようによっては“人生の波浪”と受け止めて「フッフッフッ……これも人生修行のひとつよ」と顔で笑って心で泣きながら飲むことも出来るというものだ。


 しかし、カメラは嫌だよね〜。だって機械だぜ。


 数週間前から腹痛が始まり、病院へゆくと「じゃ、来週カメラを飲みましょう」と告げられた私は、ニヤリと笑ったものの実は凍りついていた。「ヤンタなー(岩手の方言/嫌だなー)、大体きちんとした飲み物なんスか!」と言おうと試みたが口が動いてくれなかった。


 帰る道すがら胃カメラを想像してみた。胃カメラが納まっているパッケージには『吸いすぎに注意しましょう』なんて表示があるに違いない。愛煙家である私の想像は更に膨らむ。まかり間違って中毒症状に陥ったらどうしよう? 初めての胃カメラ。めくるめく快感に襲われ、胃カメラなしでは生きてゆけない身体になってしまう。用もないのに病院へゆき「先生、頼んますよー。ほんのチョットで好いっスから」と貪欲に胃カメラを求める自分の姿が浮かんだ。とここで新発見! そういや病院には“飲む、打つ、買う”という三拍子が見事に揃っているではないか。胃カメラを“飲む”。注射を“打つ”。薬を“買う”。


 そんな馬鹿なことを考えている間も、胃カメラの野郎は虎視眈々と私の清らかな胃を狙っているに違いなかった。


 数日後、発想を変えることにした。看護婦さんを笑わせることを考えることにした。カメラを飲む前に「いただきます!」と言い、飲み終えたら「結構なお手前でございました」とのたまわり、白いハンカチで口の端をチョンチョンと拭ってみせるのだ。その余裕綽々としたユーモラスな振る舞いに、美人看護婦はイチコロとなり、思わず白衣をはだけてのけぞるというシナリオだった。


 ところがここで問題が起きた。一通のメールが私の青写真を木っ端微塵に打ち砕いてくれた。発信人は「書肆月影」の店主・大塚清夫氏。


 件名は「泣くな胃カメラ」。冗談なんて言えないぜ、嗚咽と唾液にまみれ醜態をさらすのだよーーーん、との内容であった。でも、昔の胃カメラと較べれば随分と小型になったので飲み易くなった、と大塚氏の母上の体験まで紹介して下さった。大塚さんの御母堂は胃カメラ歴数十年の強者で「胃カメラ患者版・衣笠祥雄(元広島カープ)」と推察された。私は震えながら眠れぬ夜を過ごした。


 晴れ渡る空の下、私はスクーターを飛ばした。「てやんでえー、胃カメラなんか幾らでも飲んでやろうじゃねえか! こちとら江戸っ子でえいっ!」とヘルメットの下で叫んでいた。本当は蝦夷っ子(道産子)なんだけどね。


 病院の澱んだ空気が私を包んだ。病人ばかりを一ヶ所に集めるのは誤っている。ここでは病気であることが普通になっちまう。待合いロビーに居合わせた100人を超える病人が発するオーラに敗れた私は、すんなりと病人の仲間入りをしてしまった。


「小野さあーーーん」「ハアーーイ!」名前を呼ばれ黄色い声で応える。「胃カメラを飲んだことはありますか?」「初めてっス」「では、カメラを飲む前に準備をしますねー」。まず肩に注射をし、続いて喉に麻酔をかける。麻酔ったって喉の奥に麻酔液を溜めるだけなんどけどね。5回に分けて行うのだが麻酔が効いてくると「ウゲッ、フンガッ」となる。私は少し飲み込んでしまった。「プッハアー、寒い日はこれに限るぜ」と言おうかどうか迷った。「あの〜、飲んじまったんスが、大丈夫っスか〜?」と訊くと問題はないようだった。準備万端、私は診察室へと勇んで進んだ。「来るなら、来い!」。


「はい、ベルトを緩めて横になって下さい」。洗面器が置かれ、脇にはタオルが添えられていた。「うわあ、こんなに涎(よだれ)が出るの〜?」洗面器一杯に溜まった涎の処理はどうするのだろう? 「はい、力を抜いて下さーい、大丈夫ですよー」。何かくわえさせられた。カメラを通すため2〜3cmほどの穴が空いた器具だった。「あ、なるほどね〜」。「はい、じゃカメラ入りますよー」「飲み込んだ方が好いのかどうか聞くの忘れていたなー」。


「はい、もう入りました」──。


 全く話しが違った。「胃カメラを飲む」という日本語は誤っていた。「突っ込まれる」のだ。異物が挿入され私は犯されたような気がした。「目をつぶらないで下さい。画面を見るように」とうら若き看護婦。おお、見える見える。こんなによく見えるのかー。映画『ミクロの決死圏』さながらであった。普段お目にかかれないモノを見せつけられると妙に恥ずかしかった。体内がフリチン状態となった。


 ぐいぐいと胃カメラは身体の奥へ侵入する。検査技師の動きが大きい。「そんなに勝手に入れるんじゃねえよー」と声にならない声。胃カメラは土足で人の身体の中をを踏みにじる。「胃液が凄いですね。はい、水お願いしまーす」。カメラの脇から水が放出され、胃液を洗い落とす。胃の行水だ。


「胃の方は大丈夫みたいですねー。じゃ、十二指腸見てみましょう」。
オイオイ、ふざけるのも大概にしておけよ。“胃カメラ”だろう? どうして十二指腸まで見るんだよー。それなら“十二指腸カメラ”にすりゃあいいじゃねえかー。畜生、騙(だま)しやがったな、検査が終わったら貴様を病院送りにしてやる!


 十二指腸と聞き、私は人体模型を思い起こした。腸は蛇のようにクネクネとお腹に納まっているはずだった。胃カメラが映し出す映像に魅了されながらも、まさか、ケツの穴からカメラが顔を出すことはないだろうな、との不安を拭い去れなかった。自分のケツに向かってピース・サインを出し、天地が反対になった映像だけは絶対に見たくなかった。


「潰瘍ですねー。お、こっちにもあるな。三つありますねー」。十二指腸潰瘍だった。


 検査が終わった。唾液は一滴も出なかった。嗚咽もせず。「大変、上手でした」。褒められると直ぐいい気になってしまう癖がある私は、少し胸を反(そ)らせて「あんまり美味しいモンじゃないっスねー」と言った。検査技師と看護婦が笑った。
 更に追撃を加える。
「腹黒いという言葉がありますが、本当に黒い人はいるんスかねー?」
「ハッハッハ、そんな人はいませんよー」とのことだった。


 私は病院から“5月度胃カメラ患者/月間MVP賞”を受賞されることを希望している。