古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『街の古本屋入門 売るとき、買うときの必読書』志多三郎

 裏表紙の顔がいい。腕っぷしの強そうな面構えだ。しかしながら、文章は人なつっこい上に洒脱。遠慮がちに吐き出される小言には落語の小気味よさがある。


 本と聞いた瞬間、あなたが想像するのは新刊書籍であろうか。それとも、いくらか手垢のついた古本であろうか。読書量が増えてくると、本の値段が随分と高く感じる時がある。そこから古本屋への道が忽然(こつぜん)と開かれる。私の場合は19歳の頃だった。探しあぐねていた本を古書店で発見した時の感動といったら、「母と子の涙の再会」に匹敵するほどだった。古書店巡りの醍醐味は「邂逅(かいこう)」と「遭遇」に尽きる。


 古書店主による古書店の手引きである。開業から経営、本を売る場合の注意事項まで書かれている。まあ、古本屋が好きな方であれば、どなたでも充分楽しめる内容だ。


 第2章の(2)で「理論」的な問題、と題してこのように書かれている。
 

 表題を見て、え、古本屋にも理論なんてあるのかと疑問を持たれる人の感覚は正しい。古本屋は、ある意味では新刊書店より出版社の性格に近いものがあると第一章で書いたが、根本的には資源再利用の域を出ない商売であり、新しい意味附与がときに要求されることはあるにしても、一般的には創造・創作からはほど遠い商売である。だから古本屋には、どんなルネッサンスもなければどんなシュトゥルム・ウント・ドランクもない。個人的な営為にのみ終始している面から見れば、どんな栄誉もなければ、またどんな鉄槌もない。新しい天地を求めて古本屋になる者も、夢破れて古本屋になる者も、その間の事情に異同はない。淡々と続く散漫な日常があるだけであり、いくらかの小銭を儲けた損したが連綿と続くしがないたつきである。
 なんだ、それならそのへんの会社員とさほど変わらないではないか、とおもわれる人の感覚もまた正しい。


 これには笑った。オンライン古書店を開業した私にとっては、身につまされる記述だった。飄々たる筆致でこうも見事に書かれてしまうとぐうの音も出ない。だが、ここで気づくのである、只者ではない著者の読書量と蘊蓄(うんちく)に。


 店主から見る古本屋と、客のそれでは随分と違うことがよくわかる。例えば、立ち読みを拒否する権利を店主は持つ、という。商品とはいえ、基本的には店主の蔵書である。故に、あっちパラパラ、こっちパラパラというのは極めて迷惑とのこと。これには随分と反省させられた。


 著者は古書業界を通して、巧みに時代の変遷を捉えている。古き良き時代の出来事が折に触れて書かれているが、最近と思われる内容で明るいものはあまり見受けられない。良い本は少なくなって来ているようだ。


 時に私も根付けに迷うことがままあるのだが、著者はこう記す。
 

 結論的にいえば、古本一般の売価は、定価と仕入れ値とを函数とし、さらに店主の思想の表出たる係数を乗じたものといってよいだろう。店主の思想といえば大仰(おおぎょう)にとられようが、変動せざるを得ない相場に対する直感力であり、不易流行への批判力であり、社会情勢への認識力である。眼鏡をずり上げながら鉛筆片手にちょいちょいと売価をつけていくのが古本屋の一つのイメージとしてあるのだろうけど、そのちょいちょいの陰には、客の背後にある現代社会をにらんでいる目がある。


 これには快哉を上げた。まさしくその通りなのである。勝負、丁か半か! といった裂帛(れっぱく)の気合いが入る瞬間でもある。


 本書を読んで私は大変、意を強くした。偉大な先達に道を指し示してもらったように思えた。この仕事は儲けが少ないにもかかわらず、病みつきになりそうな奥の深さが何とも言えない。