古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『ルネッサンスパブリッシャー宣言 21世紀、出版はどうなるんだろう。』松本功

 出版界に一石を投じる内容だ。著者が起こした波紋は、売ることに汲々として来た業界の迷妄を醒ますに十分なものがある。


 冒頭で「基礎の本」に対する危機感を表明。「基礎の本」とは、新書の巻末などで参考文献として挙げられているような本を指す。確かに浮かんでは消えゆく泡沫の如き出典数を、敷地の狭いその辺の本屋などではカヴァーしきれる筈がない。また、漫画やグラビア誌の極彩色が氾濫する店内で、活字が整然と並んでいる本に若い人は見向きもしないだろう。学校の図書館が生徒を何とかつかまえようとして、漫画を置くような時勢なのだから当然と言えるかも知れない。著者は巧みな比喩を用いてこう記す。

 たとえば、網野善彦さんの日本中世史の研究がなければ、隆慶一郎氏の時代小説はありえなかったと思う。


 こう言われると他人事じゃ済ませられなくなって来ますわな。いわば、その時代の文化を最も奥深いところで支えているのが「基礎の本」というわけだ。つまり、ミステリなんぞも「基礎の本」という根っこに支えられて咲いた花だったのだ。そうすると、私なんぞは随分と間接的な恩恵に浴していることになる。


 著者は更に学問のあり方に論及し、デジタル・テキストの可能性、オンデマンド出版の効果など、具体的な提案を欠かさない。


 止むに止まれぬ情熱が行間から立ち上がって来る。出版現場で培われた目配りが要所要所をピタリと抑え、闊達な意見に拍車を掛ける。本を愛するが故の危機感、知を求めるがためのユニークな発想──これらを支えているのは、出版界の古い頚木(くびき)から「基礎の本」を解き放ち、市民からよく見える位置に舞台を提供したいとの志であり、それは“出版人魂”とでも名づける他ない著者の精神から生まれたものであろう。

 20世紀は、紙の本の時代でもあったわけだが、21世紀は、同じようには紙の本の時代ではあり得ないだろう。


 デジタル・テキストの台頭を踏まえて、著者はこう予測する。そして、質の高いデジタル・コンテンツを育むために「投げ銭(なげせん)システム」《大道芸を見た人々が小銭を寄付する感覚で、ネット上の小口決済を可能にするシステム》の導入を唱える。


 これは市民が文化を育むという壮大なロマンに富んだ実験である。私自身、ホームページを立ち上げてから、この運動に賛同している。


 しかし、しかしである。この本を読み進めている内に、私の心には澱(おり)のようなものが付着し、最後まで拭い去ることが出来なかった。


 その一つは、物心ついた時からテレビ、ラジオなど無料で情報を得ている人々が、今更、文化育成のために、不況で冷え切った懐(ふところ)に手を差し込むだろうか、という疑問である。企業が欲しがるような情報であれば別なのだろうが、個人が金を払ってまで読みたがるような情報というのも、チョット想像しにくい。これが実現するには、日本人の精神に革命が起こらずしては、千里の道のように思えてしまう。現今の起業家への援助や福祉予算などを鑑みても寒々しい限りである。こうしたところに変化の予兆が見えない内は大いなる困難が立ちはだかるように思えてならない。まず、大前提としては通話料金が格安になるということが挙げられるのではないだろうか。市内通話が無料にでもなれば、3分10円くらいのチップは期待出来ようか。コンテンツに関しては、様々なサイトを集めて、衛星放送のような“チャンネル”を設けた方が喜捨しやすくなるようにも思える。


 本に対する考え方は人それぞれで良いと思うのだが、私にとって書物の存在は、只単に一片の情報という代物ではなく、愛着を感じて止まない「モノ」なのである。本は読むモノであると同時に、開くモノなのだ。時によっては、頬ずりする対象にまでなる。


 私は何も、デジタル・テキストの可能性を否定する心算は毛頭ない。コピーの簡便さ、検索の便利さなどはこの上ない。送受信も自由自在だ。


 ただ、本を買った時のあの満足感がデジタル・テキストから得られるであろうか。探し求めていた本を古書店で発見した時に手を伸ばすあの感覚は望むべくもないだろう。


 今、考えなくてはならない意見が満載された本書が、一人でも多くの方々に読まれ、議論百出すれば変化は期待出来るだろう。


 巻頭で著者は「知の方向転換に伴い、出版社も世間に溶け出す(主意)」と述べている。業界人スープと素人御飯が混じり合い、“おじや”の妙味が生み出されるようなデジタル文化の登場。それは、通信ケーブルを媒体とした瞬時の交流が実現した今、西洋ルネサンス期の大航海時代を席巻する激動と、新しい価値を誕生させるに違いない。