古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『遊ぶ』富岡多恵子(責任編集)、鶴見俊輔、中野収、畑正憲、三上寛

 私は以前から「遊び」ということに多大な関心を持っている。しかし、私が遊び人だということではない。ある青年が(私も青年ではあるが)「最近、遊ぶ場所がないんですよね。まあ金さえ出せばどこでも遊べるんですが……」とぼやいた。今から10年ほど前のことで、ビリヤードが流行っていた頃の話だ。時を同じくして波多野誼余夫、稲垣佳世子著『知的好奇心』(中公新書、1973年)を読んだ。これで決まりだった。遊びとは正反対の概念と思われる仕事・勉強に対して、遊ぶような姿勢でできないだろうかといったことを心理学的に模索した労作。私のテーマが「遊び」になった瞬間だった。そんなこんなで、この本を神田古書街で見つけた時はなんのためらいもなく買った。ついでに一緒に並んでいた同シリーズの『争う』(岸田秀・責任編集)も買ったのだった。


 失敗だった。コン畜生め! 『争う』の方が遙かに面白かった。いや参った。よく読み了えることができたと、自分の忍耐力の強さを誇りたい気分だ。


 座談と論文で構成されているのだが、論文が全く駄目。読むに値するのは鶴見のものだけだ。富岡多恵子に責任を取ってもらわねばなるまい。「富岡あーっ、腹を切れぇーーーっ!」と私は言いたい。


 対談だけならまあまあである。当時30歳の三上寛が良い味を出している。そして、最も驚かされたのは畑正憲だ。東大卒の動物好きなオヤジくらいにしか思っていなかったが、とんでもハップンだった。ギャンブラーだったのね、この御仁。更に記録映画の仕事に従事していただけあって、含蓄に富んだ発言が随所に見られる。鶴見はマイペース。この人はペースの崩しようがない。


 のっけから出てくる「身を隠すことが最高の遊び。それは結局死ぬってことでしょ。死ぬのは怖いから、死ぬすれすれまで行くわけよ。それで遊んでるわけ」(11p)という鶴見の卓見には驚いた。そうするとかくれんぼなんてのは、生と死をモチーフにした遊びなんですな。暴走族が走り回るのも、死を感じることで遊んでいるのかも知れない。シンナー遊びってのもあるわな。ラリることによってしか生を感得し得ない現実があるのかも知れない。


「穏やかな皮膚の接触がお互いに愉快な感じをつくっていくというのが、だんだん失われていくでしょ。たとえばテレビを通してというとフィルターがかかるから」(24p)。これも鶴見の意見。ペットブームの本質を「接触を楽しむ」ものと喝破していてお見事。


 高度成長以降の若者に見られる変化が取り上げられ、小粒になりつつある様相が兆し始めることが話題に。ここで畑が言う。「豊かさというのは毒をなくす」(124p)。こりゃ名言ですな。さすが元ギャンブラー! 確かにそうだ。豊かさは感情の濃度を薄める。喜怒哀楽をオブラートで包み隠す効用がある。

 遊びは桃源郷であってユートピアのビジョンを持つ場所なんだな。(129p)


 鶴見は遊びの本質を照射する。遊びは非現実であるが故に遊びたり得るのだ。何者にも束縛されない時間を遊んでいるのかも知れない。


 畑の論文に強い棋士のタイプが二通りあげられている。その一つが私の興味を惹く。

 碁や将棋こそが、自分に与えられた唯一無二の天職だと信じ、信じようとするため、他のものには一切目をくれず、すべてを捧げてしまうタイプ。
 インタビューにはこう答える。
「あなたの趣味は?」
「碁です」
「え? それは本職でしょう」
「碁です。それしかありません」
 打ってそして研究する。
 重い古書を左手に持ち、右手で打ち進めていくので、左手の指が反対側にそってしまい、変形しているものもいる。
 爪の形が、石を打ちおろす力によって変わってしまっているものもいる。(228-229p)


 苦痛を苦痛に感じなくなる、ここに遊びの真骨頂があるのではないか? ある目的に向かってがむしゃらに進み、そのために必要な苦しみを完爾として許容する。苦しむことさえ楽しんでゆく強靭でしなやかな精神力、それこそが人生を遊ぶ者に必須の能力ではあるまいか。ルールのない遊びは存在しない。ルールというものは困難を表している。守らなければならない足枷(あしかせ)である。足枷があればこそ自分の力が試される。試練とは人生を遊ぶ者にとって欠くべからざるルールなのだと気づかされた。