それなりに読ませる本だ。著者は自ら右翼を名乗る若手オピニオン・リーダー。
前半の国体論には少々辟易させられる。国の構えを論じる場合どうしても防衛という一点を外すわけにはいかないのはわかるが、納得できる説明などしようがないんじゃないか? 根本的には暴力を肯定せざるを得ないが故に、いかなる正義の図柄を描こうとしても、どこかに破綻が生じてしまう。力めば力むほど醜悪な詭弁に思えてならない。
情報が瞬時に世界を駆け巡るグローバルな時代を迎えた今、敢えて「日本」という垣根を高くして、国家としての違いを色濃く現すことにそれほどの意味があるとは私には思えないのだ。
福田は恵まれた環境で育ったようで、この手の話にありがちの声高な調子ではなく、知的好奇心旺盛な論調は好ましい。蕩児の如き自由闊達さと説得力に富んだ切り口でズケズケとモノを言う小気味好さがある。
であるにせよ、古い思考であることに変わりない。右翼を名乗ること自体がそれを物語っている。所詮、分析であって、新しい世紀の政治思想たり得ないだろう。
福田からは血と汗と涙が感じられない。天下国家を論じるのも大事であろう。だが、国家を支える国民一人ひとりの行動に決定的な影響を与える思想とは、塗炭の苦しみの中からしか生まれないと私は信じる。その点では宮崎学に軍配が上がってしまうだろう。
国と国との力関係を全く違う関係性に転化することができなければ、国体論なんざ、百害あって一利なしと断ぜざるを得ない。そうやって得られる独自性とは、差別以外の何物でもなく、いたずらに摩擦を加える結果にしかならないであろう。そうではなく、国際社会にどのような貢献が出来得るのか。そうした、実践の中から新しい「日本」の青写真が浮かび上がって来ると私は考える。
嘉永6年のペリー来航をもって日本の近代と定義付ける彼はこう記す。
ペリー来航の意義は、圧倒的な武力による開国の強要だけではなく、また交易の開始でもなかった。政治と経済、文化といったあらゆる面において、日本が近代という巨大なシステムに吸収されるということだったのである。(132p)
この時の日本の選択肢としては属国となるか、適合するかの二つしかなく、独立を選んだ日本は否応なく西洋の近代システムに放り出される結果となった。これによって日本に課された条件は、国防線の拡大と貿易立国として資本を確保することの二つ。そこから具体的に引き起こされた結果としては、
関税等のイニシアティブをとられたまま自由貿易にさらされたことによって、国内の均衡として維持されてきた日本経済の仕組みは崩壊の瀬戸際にまで追い込まれた。(同頁)
その結果、大量の金が流出。更に武器艦船の購入等などにより債務が増大、開講後10年で「生活費は2倍に値上がりした」(同頁)。流れるように書かれる近代論は説得力充分だ。しかし、ピタッと来ない。なぜなら、それ(外国による軍事介入)以外の開国のあり方が想像しにくいからだ。まさか、開国を拒否し続け、チョンマゲに刀を差した世界を彼が望んでいるとも思えない。上手い説明だとは思うが、上手いなあ、で終わってしまう力の弱さを否めない。人を動かしゆく論理にまで至っていない。運動性をはらんだ論理でなければ、結果的に机上の空論となってしまうのではないだろうか。
前半は日本の近代史を俯瞰し、日本のアイデンティティを模索した内容。後半は文学論・美術論を通し、個人の立場から日本人のあり方を問う。こういった話題に興味のある方は読まれると良い。
湾岸危機によって日本に突き付けられた諸問題の提起などは、現実を弁えた“生きた意見”であろう。国体論に不可欠な防衛・安全保障といった課題を取り上げ、「青年に『生命』の犠牲を要求しうる価値」(169p)を示さなければいけない、と威勢は好いが腰砕けの感は否めない。しかし、後半に入るや否や、俄然、読み易くなる。哲学・文学・美術を通し、自己のアイデンティティを書き表す。就中「村上春樹氏の世界観は、その徹底性と孤独さにおいて吉田茂と一脈通じている」(346p)なあんてのは、いいですねえ。
総じて読後の印象の薄さが、所詮、サロンにいる人間が好き勝手を言っているだけじゃあねえか、という気にさせる。そして決定的にウンザリさせられるのは西部邁のベタベタした解説だ。若者が書いた恋文のようなナルシシズムに満ちた薄気味の悪い文章で、若いツバメにラブコールを送るオジサマといった体裁だ。
悪口ばかりで申しわけないが、決して悪い本ではない。ただ、福田の思考は現代を見事に射抜いてはいるが、遠い将来の大きな的にまでは至らないだろう。