古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

歴史に厳然とそびえる不屈の民衆劇/『攻防900日 包囲されたレニングラード』ハリソン・E・ソールズベリー

 決して面白い本ではない。事実を一つひとつ積み重ねることによって全貌を現す労作業が、異様な重さとなって読者に覆い被さる。ドイツ軍に包囲されたレニングラードを舞台に、第二次大戦における独ソの熾烈な戦闘が克明に綴られる。


 前半はレニングラード侵攻の端緒から全面戦争に至るまでが、かなりの量で記されている。ドイツが攻め入ってからソ連が応戦するまでに恐ろしいほど長い時間を要している。ドイツの攻撃により四個師団が壊滅状態に陥っても、ソ連首脳は誰一人指示を出さない。スターリンが巻き起こした粛正の嵐の中で、ソ連首脳は完全なる官僚と堕落してしまった。人の命が枯葉のように翻弄される社会にあっては、責任を全うしようという人間などいるはずがなかった。次々と撃破される現状にようやくスターリンは動き出す。情報化社会の現代から見れば、のどかな印象すら受ける。ファシストの周囲には忠臣がいない。恐れることなく諫言できる忠臣は既に抹殺されていた。ところどころにスターリンが登場するが、全く人間としての顔が見えて来ない。不気味な存在として描き出される権力者は狂気に操られる傀儡を紛(まが)うことなく演出してみせる。権力欲に躍らされたスターリンはまさしくオーウェルが描いた“ビッグブラザー”そのものだった。


「ある日、軍に納品されるT28型戦車の検査中、ボルトが抜けていることが発見された」(上巻176p)上からは「“手抜き工事をした敵”をひっぱり出せ」(同ページ)との命令がくる。工場長のオッツは「これは一人の機械工がボルトを打ち込むのをわすれただけのことだ」(同ページ)と訴えた。その結果「工場内の党員の粛正が行われ、数百人が姿を消した」(同ページ)。こんな風にソ連という国はタコが自分の足を食べるみたいに国民を殺戮し続けた。ドイツに攻められている渦中にもそれは滞りなく行われた。想像を絶する狂気!


 こうした状況下であるにもかかわらず、レニングラード市民は生き生きと輝く。ぐうたらオヤジに賢夫人が付き添っているようなバランスシートである。闇が深ければ深いほど光が眩しく感じられる。神はレニングラード市民に国家元首とは正反対の美しい生き様を与えた。


 ペオストロフ防衛線が木っ端微塵に撃破される。手榴弾の破片を受けて倒れた若い兵隊が意識を取り戻すとドイツ将校が立ちはだかっていた。「『勇敢なドイツ軍部隊がもうレニングラードの並木道を行進しているんだぞ』とその将校はロシア語でいった」(上巻322p)。「『ソヴィエト・ロシアは破滅なんだぞ』」(同ページ)と言われても「ミーシャ・アニシーモフという名の若者は、キッと首をあげた。口から血が流れ、顔に垂れていた。『ヒトラー一味の狒狒(ひひ)どもめ!』と彼は叫んだ。『お前らにツバをひっかけてやる。早く殺せ』」(同ページ)。足蹴にされた青年はアッと言う間に射殺される。将校はそれを見ていた他の若者に言う。「『お慈悲に一言だけいっておくが、命を救ってやってもいいんだぜ』」(同ページ)カナーシンという青年は立ち上がりざま、この将校の顔にツバを吐いた。直ぐさま彼の首に鎖が巻かれ、鎖のもう一端を結びつけた車が走り出した。


 そうこうする内に最大の敵がやって来た。飢えと寒さである。

 第1日あるいは2日目それとも3日目ぐらいが一番こたえる、ということをニコライ・チュコフスキーは知った。薄っぺらなパン一片しか口にいれるものがなかった場合、人はまずその第1日に、うずくような激しい飢えに襲われる。2日目も同様。だがそのあとはこの苦痛は次第に消えていって、静かな虚脱に変る。終ることのない鬱状態、それと無力感が、おどろくべき速さで進む。あなたはきのう出来たことがきょう出来なくなる、乗越えられない障害物で身の周り全体を取巻かれたような感じになる。階段はあまりにも急で、とても登れない。薪を割ろうにも、木は堅くて刃が立たない。棚の上のものをとろうとしても、高くて手が届かない。トイレの掃除などとても手に負えない重労働になって来る。この脱力状態は日に日に進む。それでいて意識ははっきりしている。あなたは自分自身を距離をおいてながめている。なにが起っているのかよくわかっているが、止められない。(下巻150p)


 人々は代用物でしのごうとあらゆる物に手をつける。ある人は壁紙を剥がしてその糊を削り落として食用にした。また紙を食べる人、更には壁土を食べた人までいたという。胃を通過させるだけの目的で。


 餓死者が続出。食べ物を巡る争いが刃傷沙汰にまで至り、人々は血眼になって口にできるものを探す。その窮乏振りは、ペットはもちろんのこと、あらゆる動物が食べられ、遂に人肉を食らう人種を輩出せしめた。


 スターリンの後継と目されていたジダーノフ党書記がある日学童の食事に立ち会った。「昼食はパン50グラムにバターをひとなすり、冷凍ビートのスープ少々にオートミール、といっても、その内容物は大方、亜麻仁かすらしかった」(下巻199p)。多くの学童が乏しい食事の一部をジャーに入れていた。ジダーノフは後で食べるために残しておくのだろうと思っていた。が、そうではなかった。子供達は親兄弟のためにそれを自宅に持ち帰るのだった。一方に人の肉を食らう人間がいて、もう一方には人のために自らの食を削る子供達がいた。飢えた子供達がジャーに食べ物を移すしぐさを想像する。その強靭な優しさに涙を禁じ得ない。

 死はレニングラードを大手を振って歩いていた。(下巻198p)


 12月10日ウズベクの詩人アリシェル・ナヴォイ生誕500年祭が行われた。2日後には第2回ナヴォイ集会が。「アカデミー会員B・B・ピオトロフスキーが『古代東洋神話のモチーフとアリシェル・ナヴォイの創作』と題する講演をした。次いでレーベディエフが、詩『七つの惑星』の抜粋を朗読した」(下巻219p)。レーベディエフはその場で倒れた。倒れた後も彼は最後の力を振り絞って詩の一節を口ずさんだ。彼はそのまま死んだ。


 12月半ばになると餓死者の数は日に6000を数えるまでになる。道端で倒れたまま死にゆく人の姿が日常的な光景となる。死体を運んで、そのまま力尽きて死ぬ人も。ふと会話が途切れると既に亡くなっている。死体と化した親とそのまま生活を共にする子供があちこちにいた。死、死、死……。


 その中にあってレニングラード市民の間では詩が詠じられ、美術が語られ、トルストイドストエフスキーが読まれる。


 文化の底力が死と拮抗(きっこう)する。たとえ死が訪れたとしてもそれは安らかなものに違いないと私は信じる。


 エルミタージュ美術館の地下では学究達が仕事を続けていた。彼等は「小さな手燭やろうそくで書物やものを書く黄色い原稿紙(ママ)の上を照らし、インクは凍りそうになるのでたえず息で暖めなければならなかった」(下巻p221)。毎日2〜3人が死んでいく中で、生き残った研究員は死ぬまで仕事をし続けた。

 Z ジェーニャは、1941年12月28日昼12時半に死にました。
 B バーブシカ(おばあさん)が1942年1月25日に死にました。3時に。
 L レーカは1942年3月17日5時に死んだ。
 D デャーデャ(おじさん)ワーシャは1942年4月13日夜中の2時に死にました。
 D デャーデャ・レーシャは1942年5月10日、午後4時に死にました。
 M ママは1942年5月13日、朝7時半に死にました。
 S サヴェチェフの一家は死にました。みんな死にました。ターニャだけ残った。(下巻289p)


ターニャの日記」である。当時11歳だった彼女は1942年の春に疎開ゴーリキー地区のシャフティ村、第48「子供の家」に送られる。その後、赤痢に罹(かか)り、医師の努力も空しく1943年夏に死亡した。巻末にターニャの肖像と日記の原文の写真が掲載されている。こんな愛くるしい顔の少女が家族の死をアルファベットの練習帳に淡々と書き記した。鉛筆の芯にどれほどの悲しい力が込められていたことか。「ターニャだけ残った」この一言に、ぽっかりと空いた広大な穴に湛(たた)えられている涙が見える。


 タス通信レニングラード通信員ルクニーツキーは記した。

 この市を去らなくてよかった。この都と運命をともにし、それに参加し、この前例なき困難の目撃者となれた私は幸せである。そしてもし私が生きることがあれば、このことは決して忘れることはあるまい。1941年、42年冬の愛するレニングラードを。(下巻288p)


 美しい都市を愛する市民感情が幾度となく書かれている。愛国心とは違う。言うなれば恋愛感情に似たようなものであろうか。私の中には全くそういうものがないだけに何とも羨ましい限りだ。長い時間を費やしながら都市そのものを築き上げた市民の歴史と伝統が、そうした心を育むのであろうか。


 ドイツは900日の攻防の末、撤退を余儀なくされた。それはスターリンに負けたのでも、ソ連軍に負けたのでもない。また、冬将軍に敗れたのでもなかった。レニングラードという、生きた人間と一体になった都市に負けたのだ。一読後そんな気がしてならない。


 スターリンの粛正の嵐はその間、全く止むことがなかった。更にレニングラードが解放されるや否や、公式文書の大半が破棄されたという。推定死亡者数150万人。その後、歴史はソ連流に書き換えられる。


 数年を経てピスカレフスキー共同墓地に墓碑銘が刻まれた。

「だれひとり忘れまい
 なにひとつ忘れまい」(下巻p333)