藤原伊織、J・クリシュナムルティ、宮城谷昌光


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折12『ダナエ藤原伊織(文春文庫、2009年)/これが遺作となった。文章がぎこちない。それが乱れに感じた。


 24冊目『既知からの自由』J・クリシュナムルティ/大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年)/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』の新訳。確かにこちらの方が読みやすい。で、案の定、旧訳に誤訳が多いことをわざわざ「あとがき」に記している。クリシュナムルティ作品を翻訳している大野純一、高橋重敏、藤仲孝司、大野龍一は人間性に問題があると思う。クリシュナムルティ本はこれで47冊目。


 25冊目『重耳(上)宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1993年/講談社文庫、1996年)/少しわかってきた。宮城谷作品は前置き(主人公の前の時代)が長いと思っていたが実は違った。人ではなく時代が主役なのだ。つまり、ある人物を境にした前の時代と後の時代を描いているのだ。歴史の波に翻弄される人と、時流の乗る人とを描いて鮮やか。何にも増して漢文調の形容が堪らない。

死刑制度について


 Rさんから全文が掲載されているページを教えていただいた。

 完全に私の読み違いであった。

 死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。


 俺のように反省する気がない死刑囚もいる中で、ほとんどの死刑囚は日々反省し、被害者の事も真剣に考えていると思います。そういう人達を抵抗できないように縛りつけて殺すのは、死刑囚がやった殺人と同等か、それ以上に残酷な行為ではないのですか?


 俺が執行されたくないのではありませんが、その様な事などを考えれば、死刑制度は廃止するべきです。


 最大の問題はこの話を検証する術(すべ)を我々が持たないことである。部分的な真実があったとしても鵜呑みにするわけにはいかない。仮に全てが事実であったとしても、それは彼から見えた世界であって、私が見れば違うかもしれない。


 死刑制度が示しているのは、「正当な理由があれば人を殺してもいい」という価値観である。その意味で彼の言い分は正しい。


 私はずっと死刑制度に反対であったが、40歳を過ぎた頃から変わってきた。


 死刑制度の背景にあるのは仇討ちの文化であろう。そしてもう一つは、「コミュニティを危険にさらす者の排除」である。例えばチンパンジーの場合、群れを危険に陥れた者はその場で殺される。多分、善悪の概念ではなく本能が指示するのだろう。この意味において死刑には進化的優位性があると考えられる。


 冤罪や裁判のテクニカルな部分については話が別である。ここでは敢えて問わないことにする。また極端にわかりにくいケース(正当防衛や事故など)も除く。


 大体、反省して罪が許されるのであれば、「反省したフリ」をする人間が必ず出てくることだろう。罪と反省の経済性が認められるのであれば、先に反省してから罪を犯すことも許されるのではないだろうか?


 私は強姦や幼児虐待をした者は死刑にすべきだと思う。縛り首では軽すぎるから、被害者と同等以上の苦痛を与えることが望ましい。どうせなら、被害者の家族が執行できるようすればいいと思う。


 万引きをした後で、盗んだ品物の金額を支払い、謝罪すれば許されるだろうか? 私は許されないと考える。


 人を殺す瞬間に、入ってはいけないスイッチが入れられてしまう。欲望、嫉妬、憎悪などがきっかけとなって悪しき炎が吹き出す。ものの弾みであったとしても許されないことだ。


 あんまりまとまっていないが、そんなわけで私は死刑制度はあってもいいと考えている。とはいうものの、やはり冤罪を防ぐことは不可能だろうから、苦役および重労働を課すことを提案したい。恩赦はなし。


 もしも私の子供が殺人を犯したとすれば、私が直接手を下す。これは確実だ。

図書室の一冊の雑誌をめぐる偶然の出会いが数学史を変えた

 1954年の1月、東京大学志村五郎は、いつものように数学科の図書室に立ち寄った。この才能ある若き数学者は、『マテマティーシュ・アナーレン』の第24巻を探していたのだった。なかでも、虚数乗法の代数理論に関するドイリングの論文がほしかった。その論文があれば、いま手を焼いている難しい計算ができるかもしれないと考えたのである。
 ところが驚いたことに、その巻はすでに貸し出されていた。借りていったのは、別のキャンパスにいる谷山豊という人物で、志村もまったく知らない相手ではなかった。そこで志村は谷山に葉書を書き、厄介な計算を仕上げるために至急その雑誌を見たいのだが、いつ返却されるつもりだろうかと丁寧に尋ねたのだった。
 数日後、志村のもとに谷山からの葉書が届いた。それによれば、谷山もまさに同じようなことをしているという。そして谷山は志村に、お互いのアイディアを交換し合って、いっしょにこの問題に取り組んでみないかと提案していたのである。図書室の一冊の雑誌をめぐるこの偶然の出会いが、数学史の流れを変える熱いパートナーシップのはじまりだった。


【『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン青木薫訳(新潮社、2000年/新潮文庫、2006年)】


フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

映画『ゴッドファーザー PartIII』

 時代は1979年。マイケルは、ここで、ヨーロッパ最大の不動産会社インモビリアーレの買収を画策する。そのためには、この会社を支配しているバチカン銀行を動かさなければならない。不動産会社をねらったのは、石油や金融経済といっても、株や証券を操作するためには、実物経済を独占しなければならないからである。金融経済とは、要するに、すべての経済を金融のために再編したもののことであり、ここでは、石油も土地も工業生産品も、実際に使うためのものであるよりも、むしろ利潤操作のための「金融情報」となるのである。
 問題は、土地にせよ石油にせよ、それらを必要とする者に供給することではなく、価格を自由に操作して思い通りの利潤をえることである。ちなみに、アメリカがイラククウェート侵略にイラだったのは、石油をそうした操作の道具に出来なくなることを恐れたからであった。もしフセインクウェートサウジアラビアの石油を押さえたら、アメリカとその同盟国は石油価格を操作することによって世界の金融市場を自由に操ることが出来なくなるだろう。金融や情報の操作が中心を占めるシステムの時代には、「独占」は、所有のためにではなくて、操作のために行なわれるのである。


【『シネマ・ポリティカ 粉川哲夫映画批評集成』粉川哲夫〈こがわ・てつお〉(作品社、1993年)】


シネマ・ポリティカ 粉川哲夫映画批評集成

ミルチャ・エリアーデが生まれた日


 今日はミルチャ・エリアーデが生まれた日(1907年)。ルーマニア出身の宗教学者・宗教史家、作家。宗教史に関する業績では、シャーマニズムヨーガ宇宙論的神話に関する著作においてもっとも評価されている。なお本国ルーマニアでは小説家として認知されている。



聖と俗―宗教的なるものの本質について (叢書・ウニベルシタス) 世界宗教史 全8巻セット (ちくま学芸文庫 エ) シャーマニズム 上 (ちくま学芸文庫) シャーマニズム 下 (ちくま学芸文庫)