私たちはそれぞれが役を演じている。しかしその役割は、実用的にもモラル的にも、それぞれが分離しているとする根本的仮定に基づいている。全体を念頭に入れて考えているのは誰だろうか。クリシュナムルティが示唆し、アルバート・ビグローが行動で示したような考え方、すなわち自分は全体と深くつながっているため、全体に対して責任を持ち、釈明すべき責任を負うのだという考えを私たちが認識するようになったら、世界はどのくらい好転するだろうか。
ポテチの量が昔より減りすぎだろ 詐欺すぎる
90g → 70g → 65g → 60g/減っていたとは思っていたが、これほどとは(涙)。
孤独が与える安らぎ
あのガイドが言っていたとおり、山登りには遅すぎる季節だった。しかしなぜか気にはならなかった。自分はひとりきりで、ふたたび山の上にいる。孤独がどんなに安らぎを与えるものか、わたしは忘れていた。脚に、肺に、昔の力がよみがえる。冷たい風が全身を打ちすえる。55歳のわたしは、いまにも歓声をあげそうだった。喧騒もストレスも、何百万もの人々のうごめきも消えた。光も、味気ない都会の匂いも消えた。あんなにも長い間、あんなものに耐えていた自分は、気が狂っていたにちがいない。
【『鳥 デュ・モーリア傑作選』ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子〈むたい・なつこ〉訳(創元推理文庫、2000年)】
マルティン・ニーメラーが生まれた日
今日はマルティン・ニーメラーが生まれた日(1892年)。ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した──しかし、それは遅すぎた。(「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」)