仏教の実像をわかりやすく探る/『仏教の謎を解く』宮元啓一
決して悪い本ではない。初心者向けの内容でありながらも、きちんと要所を衝いている。手放しで褒めるわけにいかないのは著者が放つ嫌な臭いである。尊大かつ傲慢な素振りを私は感じた。ほんの数ページではあるが結果的に全体を台無しにしてしまっている。
とにかく文章がすっきりしない。結局のところ宮元は仏教史実あるいは仏教論理研究家であって、宗教者ではないのだろう。この人の文章には悟性のようなものが欠けている。ブッダを語りながら、ブッダの精神を見失っているような気がしてならなかった。
偉大な人物を知れば、その魂に触れて生きる姿勢が劇的な変化を遂げるものだ。偉大な人物は偉大な素材でもある。調理を施す人に厳しい注文をつけるのは当たり前だと私は考える。「ブッダってね、実際はこうだったんだよ」で終わってしまえば、それこそ噂話のレベルと遜色がない。
ブッダは「すべてを知る者」だった。それはどのような意味だったのか──
ですから、本来、釈迦は、すべてを知る者だとはいえ、宇宙の成り立ちとか、自己の本質とか、また、わたくしの2週間後の夕食の献立とか、そういった、釈迦みずからの実存にまつわる問題にかかわらないものは、みな「知る必要のないもの」と見なしたのです。
実際のところ、そうしたものを釈迦は「知らなかった」でしょうが、肝要なのは、釈迦が、そうしたものを「知る必要のないもの」と見なしたということです。だからこそ、「すべてを知る者」だと自称することができたのです。
【『仏教の謎を解く』宮元啓一(鈴木出版、2005年)以下同】
ブッダは形而上学的な存在論の問いに対して沈黙をもって答えた。これを無記という。
ブッダはまた「否定の鬼」でもあった。「非ず」の連続技で人々の常識や価値観を激しく揺さぶった。真理は言葉にすることができない。それゆえ真理は否定形でしか示せないのだ。人々が執着するものを否定し、更に執着を否定しようとする努力をも否定し、「ただ離れよ」と説いた。
学問は本来、自分が自由になるために行うものである。だが実際は学ぶべき内容をお上(文部科学省)が定め、テキストの暗記競争でヒエラルキーを構築し、社会に隷属する人間を粗製濫造する様相を呈している。学びて自身に問う姿勢は身につかない。学べば学ぶほど考える力が奪われる始末だ。
ヒンドゥー教の最高神は全知だとされましたが、これはまさに無制限に全知なのでした。わたくしの2週間後の献立など、わたくしすらもわからないことを、ヒンドゥー教の最高神は知っている、ということになったのです。
キリスト教の神も同様だ。ま、神は人間じゃないからね(笑)。大体さ、全知全能ってえのあ権力者にとって都合がいいんだよね。「だから嘘をついてはいけない」って論法になるわけだから。本当に全てを知っているなら神様は傍観しすぎだ。神の子が虐殺されても出てこようともしないんじゃ、いたっていなくたって同じだわな。
そうやって、輪廻的な生存にまつわるすべての経験的な事実を観察し尽くし、それらのあいだの因果関係の鎖を考察、確認し終えることによって、釈迦は完全な智慧(ちえ)を得、「すべてを知る者」となったのです。もう少し詳しくいいますと、釈迦は、こうして、知るべきもののすべてと、知る必要のないもののすべてと、その両者の境目のすべてを知る者となったのです。
文明が発達すればするほど、些末な生を生きるようになる。太陽の光や風に触れることも減ってゆく。自然との交感を失うと身体感覚が低下する。本能は退化し、脳味噌は断片的な刺激を受けて触覚のような反応を示す。皮膚感覚を欠いた刺激は先鋭化し、豊穣なはずの生が切り取り線状態と化す。で、挙げ句の果てに「自分探し」が始まる寸法だ。
このことを考え抜いたすえに、釈迦は歴史的な大発見をしました。
すなわち、輪廻的な生存をもたらす因果関係の鎖の終点は、じつは欲望ではなく、その欲望のさらに奥に、わたくしたちにはほとんど自覚できず、またほとんど抑制不可能な盲目的な衝動、つまり根本的な生存欲があることを釈迦は確認し、それを無明(むみょう)とか癡(ち)とか渇愛(かつあい)とかと呼びました。
そしてさらに画期的な発見。釈迦は、根本的な生存欲を滅ぼすものは、輪廻的な生存をもたらす因果関係の鎖のすべてを知り尽くす智慧(ちえ)に他ならないと見て取ったのです。
巧みな説明ではあるが、最後の部分は勢い余って筆が滑ったのだろう。いくら何でも「輪廻的な生存をもたらす因果関係の鎖のすべてを知り尽くす智慧」はないだろう。これではブッダが輪廻を肯定したことになってしまう。肯定も否定もしていないのが本当だ。
脳科学的にいえば、意識上の欲望と無意識領域の情動ということだ。とするとブッダは3000年も前に脳の構造を理解したということなのだろうか? 違うね。そうであれば脳科学者は皆悟りを得ているはずだ。そんな形跡は全くない。
ブッダは見たのだ。欲望の深層にほとばしる善と悪の奔流を。その向こう側には生そのものが燦然と輝いていたはずだ。瞑想とは自身の内部を深く見つめる営みである。欲望と自我の岩盤をどこまでも掘削すると忽然と泉が吹き出す。黄金に輝く生の泉が。
特殊法人とファミリー企業
特殊法人(や許可法人)はどんどん子会社(公益法人も含む)、孫会社などを作る。株式持ち合いの関連企業を含めるとファミリー企業は約2000社にのぼる。
その役職員数は本体を除いて少なくとも100万人と推計される。本体と合わせると150万人である。政府が大半の株を保有している旧特殊法人であるJRやJT(日本たばこ産業)などを含めると、関連企業数はさらに1000社以上増え、就業者数も数十万人増加する。
特殊法人のなかには民間企業をほとんど丸がかえしているものもある。しかも、特殊法人の事業は公益事業や委託業務が多く、特殊法人によって生計を立てている企業は非常に多い。したがって、特殊法人関係の実質就業者数は200万人は下らないはずだ。
特殊法人は資金調達は思いのままだし、株主に対する事業報告書の開示義務もなければ、経理内容も公開しない。国の財投計画の大半を受け入れて事業を展開し、膨大な下請けを抱える特殊法人は、いうなれば企業の王様だ。製造業を除くほぼ全産業分野に君臨している存在なのである。
【『日本が自滅する日 「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!』石井紘基〈いしい・こうき〉(PHP研究所、2002年)】
奴隷制を廃止するアメリカ合衆国憲法修正第13条が成立した日
今日は奴隷制を廃止するアメリカ合衆国憲法修正第13条が27州の批准により成立した日(1865年)。第1節 奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とする時を除く。