リー・チャイルド、プーラン・デヴィ


 3冊読了。


 120、121冊目『キリング・フロアー(上)』『キリング・フロアー(下)』リー・チャイルド/小林宏明訳(講談社文庫、2000年)/これがデビュー作。一気に読めるのだが、2冊にするほどの内容ではないと思う。『前夜』を読んだ時も同じ印象を受けた。ま、それでもそこそこ面白いんだ。及第点。ブラインド・ブレイクというブルースシンガーを初めて知った。


 122冊目『女盗賊プーラン(下巻)プーラン・デヴィ/武者圭子〈むしゃ・けいこ〉訳(草思社、1997年)/10月の課題図書。若い女性に読んで欲しい作品だ。非暴力に関心のある青年も読むべきだ。暴力が支配する世界で生きてゆくには二つの道しかない。ひれ伏すか、闘うかである。ひれ伏すとは、プーランの父親のように娘が何度も強姦される様子をじっと見つめることを意味する。奴隷制度を支えているのは無気力な奴隷なのだろう。プーランの父親は生まれながらにして死んでいたのだ。だからこそ、何度殺されても平然としていたのだろう。この男はレイプした連中よりも罪深い。カースト制度は3000年という時間をかけて、こんな人間をつくることに成功したのだ。カースト制度を編み出した人物が、どれほど人間に精通したいたかが窺えよう。まったく天才だよ。

『生命とは何か 物理的にみた生細胞』シュレーディンガー(岩波文庫、2008年)


 岩波新書は1951年。



生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)

 量子力学を創造し、原子物理学の基礎をつくった著者が追究した生命の本質──分子生物学の生みの親となった20世紀の名著。生物の現象ことに遺伝のしくみと染色体行動における物質の構造と法則を物理学と化学で説明し、生物におけるその意義を究明する。負のエントロピー論など今も熱い議論の渦中にある科学者の本懐を示す古典。



生命とは何か それからの50年―未来の生命科学への指針

 理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガーの著作『生命とは何か』は、分子生物学の発展に大変大きな影響を与えた。本書は、その本のもとになった講義の50周年を記念し、多岐にわたる分野から第一級の科学者たちが同じダブリンのトリニティカレッジに集まり、それぞれの視点から、生物学の中心的な問題や生命科学の今後の発展について、当時のシュレーディンガーの講義さながらに講演したものをまとめたものである。

ルソーは変態だった

 1745年、下宿の女中テレーズを愛人とし、10年間で5人の子供を産ませ、5人とも孤児院に送った。


Wikipedia、以下同】

 私生活においては、極度のマゾヒズムや露出癖、知的障害者性的虐待を行い妊娠させ次々に捨てるなど、性倒錯が顕著でもあり、自身の著書『告白』などでそれら様々な行動について具体的に触れている。少年時代には強姦未遂で逮捕されたこともあった。


 東浩紀がルソーを引用するのは「オタクつながり」の可能性あり(笑)。


告白 上 (岩波文庫 青 622-8) 告白 中 (岩波文庫 青 622-9) 告白 下    岩波文庫 青 623-0

吉田松陰の小児的な自己中心性

 外的自己から切り離された内的自己もそのままではすまない。外的現実への適応は外的自己の役割であるから、その外的自己から切り離された内的自己は、現実との接触を失い、現実感覚を喪失し、退行を惹き起こし、小児的、誇大妄想的になってゆく。古代の王ではあったが、当時、ほとんど名目だけの存在に過ぎなかった天皇が権威を取り戻し、尊王思想が復活したのは、個人で言えば、幼児期への退行である。幕府の屈従策によって危くされた集団としての日本のアイデンティティを、言わば日本民族の原点に帰ることによって建て直そうとしたのである。天皇を中心に据え、小児的、妄想的となったこのような内的自己にとっては、現実への適応なんかは問題ではないから、当然、攘夷へと走る。尊王と攘夷とは、感情的にも論理的にも必然的に結びつく。
 松陰の憂国の情、幕府批判は、まさにこのような内的自己の屈従する外的自己に対する批判である。


【『ものぐさ精神分析岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、1977年/中公文庫、1996年)以下同】

 さきに述べたように、現実感覚の不全が、外的自己から切り離された内的自己の宿命であるが、松陰の思想と行動は、現実感覚の不全、それに由来する主観主義、精神主義、非合理主義、自己中心性の典型的な例である。松陰にとっては、自己の主観的誠意だけが問題で、誠意をもって解けば通じると信じているふしがあり、同志を批判して言った「其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」という有名な言葉に示されているように、実際的効果は眼中にない。これは、同じ目標をめざして革命なり改革なりをやろうとしている同志にとっては実に迷惑千万な話で、松陰が多くの同志に見捨てられ、孤立していったのは当然である。これを、松陰の純粋さ、人の好さと見る者もいるが、それは、そう見る者が松陰と同じように小児的、自己中心的であるからそう見えるのであって、たぶん、その人自身、自分のことを純粋で人が好い(あるいは少なくとも、そういう面がある)と思っているのであろうが、わたしに言わせれば、これは自閉的自己満足以外の何ものでもなく、実際的効果を眼中におかないのは、おのれの無能、無力を暗々裡に知っているので、その面で自分を評価してもらいたくないからにほかならない。それは一種の無意識的ずるさである。また、自分のある感情なり意志なりを自分で「誠意」と判定するには、相当の得手勝手さが必要である。そしてその上さらに、その得手勝手さを得手勝手さと自覚していないことが必要である。
 これもまた自己中心性の然らしむるところだが、相手のおかれている立場というものにまったく無理解、無感覚なのが松陰の特徴で、アメリカへの密航を企てて失敗した場合にせよ、幕府と重要で困難な交渉を進める任務を課せられているペリーの立場をまったく無視している。相手の立場を無視して相手を説得できるわけはない。ペリーに拒絶されたのは当たり前であった。松陰は、事前に同志からその計画のずさんさを指摘されてとめられたにもかかわらず、ふり切って決行しており、また、のちにこの事件を回顧して書いた『回顧録』のなかで、逮捕されるとき、役人に、本来なら護送のかごには囚人の名札をつけるのだが、特別の配慮をもって名札をつけずにおいてやるからありがたく思えと言われて、「姑息の事捧腹に堪えず。且つ此の行我れ万死自ら栄とす、姓名を以て人に誇示するの意あり、姓名を榜せざる如きは我が意に非ず」と、かえって失望しており、松陰の意図は、計画の実現よりもむしろ、自己顕示にあったと思われる。その上、自首して逮捕された際、松陰は、象山が送ってくれた詩を軽率にも携えていて役人に見つかり、そのためいたずらに象山をも獄につながせる結果を招いており、革命の同志としてもつには、実に頼りない人物である。何か事を成そうとする仲間にとって、悪意なく、ただその軽率さによって無自覚的に利敵行為をする味方ほど危険な存在はない。


ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

アルビン・トフラーが生まれた日


 今日はアルビン・トフラーが生まれた日(1928年)。『第三の波』(NHK出版、1980年)で三種類の社会を描いた。第一の波は農業革命の後の社会、第二の波は産業革命、第三の波は脱産業社会(脱工業化社会)であるとした。トフラーは1950年代末から主張し、多くの国が第二の波から第三の波に乗り換えつつあるとした。


第三の波 第三の波
(※左が単行本、右が文庫本)