古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

柳田謙十郎


 1冊読了。


 106冊目『宗教批判 宗教とは何か』柳田謙十郎〈やなぎだ・けんじゅうろう〉(創文社、1956年)/昨日読了。初版が昭和31年である。敗戦から10年を経て、知識人達がマルクス主義にかぶれるのは自然な流れだったのかもしれない。宗教の起源に始まり、キリスト教、仏教を俯瞰して、最後にマルクス主義の立場から鉄槌を下している。私が考えている方向性と正反対だ。柳田はオーウェルの『一九八四年』や『動物農場』をどのように読んだのか? 社会主義国が自国民を殺戮している事実を知っていたのだろうか? あるいは密告主義をどのように考えたのか? 集団はヒエラルキーを生み、必ず政治化してゆく。そして政治は戦争に行き着く。この情況を脱するためには、社会を宗教化するしかないというのが私の考えだ。もちろんそれは特定の宗教を意味するわけではなく、宗教的価値観の復興ということだ。

元PKO部隊司令官が語るルワンダ虐殺


 映画『ホテル・ルワンダ』に登場するオリバー大佐のモデルになっているのがロメオ・ダレールである。ポール・カガメに対するロメオ・ダレールの評価は、フィリップ・ゴーレイヴィッチと正反対である。










NHK未来への提言 ロメオ・ダレール―戦禍なき時代を築く

人生の明暗を分ける出来事

 だが、彼は過去をまだ手放すことができなかった。すっかり伸びきてしまったゴムバンドを握りしめるように、彼は必至に過去にしがみついて生きていた。あのころはなにも説明の必要がなかった。時が過ぎるのは自然なことで、決して恐ろしいことではなかった。あのころはまだ、彼は希望をもっていた。


“あのとき以前”と“あの時以後”。


 カレンダーがあれば、彼は【あのとき】の具体的な日付を指さすことができた。だが、彼の中ではその境目はもっとあいまいなもので、長期間にわたっていた。それは勇気がゆっくりと、毎日少しずつ彼から消えてゆき、すべては失敗だという確信に取って代わった長い期間だった。なにごとも彼にとって重要ではなく、自分の宿命を引き受ける用意をしなければならないと悟った時間。もう間に合わないから闘ってもむだだと悟った時間。


【『罪』カーリン・アルヴテーゲン/柳沢由美子訳(小学館文庫、2005年)】


罪 (小学館文庫)

最澄〜大乗戒壇建立は具足戒の否定

 晩年の最澄には、しのこしたことがあった。大乗の戒壇院の設立である。806年(大同元)には百余名に大乗の戒をさずけている。これは唐において天台宗の道邃(どうずい)からさずけられたものであり、それを最澄は弟子たちにさずけていたわけであるが、この大乗戒は正式な比丘・比丘尼となるための具足戒とは本質的に異なっていた。具足戒を受けた場合、比丘は250戒、比丘尼は384戒を守らねばならないが、大乗の梵網戒の場合はむしろ心がまえをすればそれでよかった。大乗戒は在家・出家の区別なくさずけることができ、比丘・比丘尼・沙弥(しゃみ/僧になる前の修行者)・一般信者などの区別はなくなる。
 ようするに、大乗戒なるものは戒の放棄である。僧(比丘)と俗人(在家)との違いは、戒を守っているか否かにある。戒を保たない者はすなわち僧ではない。南都六宗の僧たちはそのように考えていたであろう。最澄は伝統的な「小乗の戒」つまり具足戒は、少なくとも日本の当時の仏教徒にとって不必要だと主張したのだ。
 日本では753年、鑑真が14名の弟子の僧を連れて来日し、東大寺に仮に設けられた戒壇で授戒がおこなわれて以来、授戒の制度が受け継がれていた。当時は中央(奈良)の東大寺、東国の下野(しもつけ)薬師寺、西国の筑紫(つくし)観世音寺の3ヵ所に戒壇院が設立されているのみであり、他の場所では具足戒を与えることはできなかった。最澄比叡山に新しい戒壇院を建て、しかもそこでは僧たちに具足戒をさずけず、大乗戒をさずけたいと提唱した。
 最澄は生涯を通じて常に人々、それも時の権威や実験者たちを驚かした。一つの新しいことをすばやくあざやかにやってみせ、人々が彼の意図を理解した頃には、彼は次の新しいことを持ち出していたのである。
 817年(弘仁8)、徳一への反論を公表した最澄は、翌年818年、「今より以後、声聞の利益を受けず(中略)みずから誓願して250戒を棄捨す」(叡山学院『伝教大師全集』世界聖典刊行協会、新版5巻、1989年、附33および、田村晃祐最澄』、192頁)と宣言した。19歳の時東大寺で受けた具足戒を、その時52歳の最澄は捨てたのである。周囲は驚き、かつ困惑したにちがいない。一宗の責任者が「自分は僧であることをやめる」と言い出したからだ。
 最澄個人が具足戒を捨てたといっても、奈良仏教は表面だった反応をしたわけではなかった。天台法華宗内部のことであり、最澄個人のことでもあったからだ。しかし、翌819年(弘仁10)、最澄が大乗の戒壇院建立のため申請書、いわゆる「四条式」を朝廷に提出すると、南都の僧たちは猛反発した。南都の僧たちにすれば、最澄の考え方は許すべからざることだった。仏教教団のあり方そのものに関することだったからだ。


【『最澄空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社選書メチエ、1998年)】


最澄と空海―日本仏教思想の誕生 (講談社選書メチエ)

最澄が生まれた日


 今日は最澄伝教大師)が生まれた日(767年旧暦)。日本天台宗の祖。法華経を宣揚。大乗戒壇として比叡山延暦寺を開く。後に総合大学の観を呈し、鎌倉仏教揺籃の地となった。律令体制が崩壊する中で最澄空海大乗仏教を日本へ導入した。「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」(山家学生式)。


雲と風と―伝教大師最澄の生涯 (中公文庫)