古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ホワイト


 1冊読了。


 105冊目『科学と宗教との闘争』ホワイト/森島恒雄訳(岩波新書、1939年)/面白かった。これで岩波新書の森島三部作(『魔女狩り』『思想の自由の歴史』)は読み終えた。西洋の科学史は教会との闘争の物語であった。元々は神の存在を証明するための学問が、神の領域を超えてしまうことで異端視される。葬られた科学者は数知れず。聖書の言葉は文字通り鎖と化した。それだけの力が聖書にはあるのだろう。だが、その一方で神という中心軸があったからこそ西洋の科学は総合性を持ち得たのだ。原書は1876年と1896年に発行されており、「むすび」のへなちょこぶりが著者の敬虔さを示している。

戒律


 戒律の問題はその是非にあるのではない。それは形式と内実、行為と悟り、手段と目的、組織と人間、個人と社会、法律(公共性)と権利(自由)といったテーマに帰着する。最終的には言葉が秘めている束縛性と(コミュニケーションを可能にする)自由性の問題だ。

検察の拷問の手口と日米両政府の手による冤罪・日米間の司法における不平等条約 岩上安身つぶやき編集


 検察の拷問の手口の一つが、持病のある人間を拘置所に留置して、薬を取りあげ、体調が悪化しても、ろくな医療行為を受けさせないこと。(本のセンセのブログ)

陽子

 とにかくちっぽけで、体積なんかあるかなし。あまりに小さすぎて、とうてい実感できないのが、陽子だ。
 陽子は原子を構成する微細な要素のひとつだ。そして、その原子からして実体がないに等しい意サイズときている。陽子がどれくらい小さいかというと、例えば印字「i」の「・」に当たる部分の微量なインクには、約500,000,000,000個の陽子が含まれている。50万年を分で勘定した数字を上回る個数、と言い換えてもいい。つまり陽子は、どう控えめに表現しても、きわめて微視的な存在だ。


【『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン/楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(NHK出版、2006年)】

人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫) 人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)

無神論者とは

 さて、よく「俺は無神論者だ」などという人がいます。
無神論」という言葉が、例えばヨーロッパではどのような戦いの中で、勝ち取られてきた言葉か――自称「無神論者」の人たちは理解しているでしょうか。「神」の権威を振りかざす王や権力者との間で行われた戦いの熾烈さを、想起しているのでしょうか。少なくとも、「真の無神論者」は、真剣に信仰に生きている人をバカにしたりはしません。おそらく「真の無神論者」がもっとも嫌悪するのが、年中行事として形骸化した葬式でしょう。それこそが、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのですから。
 しかし、日本の自称「無神論者」はしっかり、初詣には行くのです。神殿の前でしっかり、「本年一年無病息災、商売繁盛」と祈るのです。言葉の厳密な意味で「無神論者」が最も批判するのは、日本的な「仮称無神論者」かもしれません。
「初詣は宗教じゃない。みんなやっている習慣なんだ」。しっかり神だのみをしている事実を覆い隠すように「仮称無神論者」は言います。この「習慣」というのが曲者(くせもの)なのです。「習慣」とは、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのです。ミシェル・フーコーが「権力のまなざし」として感じ、ヴァルター・ベンヤミンが「勝者の歴史」と見抜いたものに通じるのです。そして、まさに仏教が疑問を投げかけた、サンカーラそのものなのです。


【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥〈ともおか・まさや〉(第三文明社、2000年)】


ブッダは歩むブッダは語る―ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う

ナポレオン・ボナパルトが生まれた日


 今日はナポレオン・ボナパルトが生まれた日(1767年)。教皇からではなく自ら戴冠し、千年の歴史をもつ神聖ローマ帝国を滅ぼした男。「世界を引っぱってゆく秘訣はただ一つしかない。それは強くあるということである。なぜなら力には誤謬もなく、錯覚もないからである。力は裸にされた真実である」(『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編)。


ナポレオン(上) (講談社学術文庫) ナポレオン(下) (講談社学術文庫) ナポレオン自伝