古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

「ノー・ウーマン・ノー・クライ」ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ


 歌が祈りであるすれば、ライヴという一回性にこそ歌の真髄がある。繰り返される祈りは願望にすぎない。繰り返し聴く曲に求められているのは刺激だ。祈りと歌は常にドラッグと化す危険性を秘めている。「繰り返す」という行為は欲望と所有の臭いがする。「出会い」ではなく「出合い」。ファーストコンタクトの瞬間が持つ現在性に「生の鍵」があるように思う。




Live!

7000年前に脳手術が行われていた

 これは、7000年前の人間の頭蓋骨。7000年前っていうと、想像もできないくらい遠い昔の話だよね。古代文明、たとえばメソポタミア文明エジプト文明はいかまら4000年から5000年前のことでしょ。それよりももっと昔の人の頭蓋骨。
 この頭蓋骨の上の方の2箇所がへこんでいるのがわかる? これ、手術した跡なんだよ。なんで手術した跡とわかるかっていうと、いちど頭蓋骨を開けると、その穴を開けた部分の骨はもちろんなくなるよね。でも、この写真では、まわりの骨細胞が増殖して穴が埋められているんだ。
 もし事故や武器なんかで、脳を打って死んじゃった人の頭蓋骨だったら、ただここに穴が開いているだけだよね? だって、死んじゃったら増殖できないから。そうじゃなくて、これは手術して、しかもそれがちゃんと成功している跡なんだ。手術の後ちゃんと生きた。少なくとも頭蓋骨が再生するまではこの人は生きていた。


【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(朝日出版社、2004年/講談社ブルーバックス、2007年)】


進化しすぎた脳 (ブル-バックス)

仏教における知性と信仰

松山●それで中村元先生とかいろいろな方が教えて下さっていることですが、案外、初期のジャイナ教と仏教はいっていることは同じだし、用語も共通のものが多い。それだけではなく、バラモン教などのいったことと違うことが強調されているけど同じところもいっぱいあって、本当の釈迦如来というかゴータマという人は非常に人格的な感化力が強い、いい意味でのカリスマではあったんだろうけど、何が独特の教説であったかは、あまり分からない可能性もあると思うんです。(中略)
 だから無明の除去(※十二因縁)――現代の言葉でいえば理性によって真実を覚知しそれに基づいて生きるというのは――理想主義としては非常にいいけど、それを全ての人間に要求するとすれば大体不可能だということから、どうも釈迦仏教というものは理想の形で、ごく少ない人にはかなりの程度に実践できるにしても、普通の人にはできっこない、あまりにも厳しいし、またある意味では、人間性について楽観視しすぎている教えだったという気がするわけです。
 そのために密教に至るまで、お互いに全く違う、お釈迦さまがおそらくいわなかった教えによって救われようという、いろいろな分派が生じちゃったと思うんです。
 そこへいくと、『法華経』は、お釈迦さまの『法華経』で説かれたことを心から信ぜよということをもっとも重要視していて、知による無明の根絶を不可欠とする、それまでの仏教というものとはつながらないんですね。それでも、一つだけいえるのは、お釈迦さまがいなければ『法華経』もできなかったことは確かだから、そういう意味で釈迦仏教の延長上にあることも間違いないとは思うけども、やっぱりダルマというものに対する信頼感を徹底的に持つことで『法華経』精神が成り立つのではないか。


【『蓮と法華経 その精神と形成史を語る』松山俊太郎(第三文明社、2000年)】


蓮と法華経 その精神と形成史を語る