古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

格闘技番組と紅白歌合戦

 いずれにしても、格闘技は、エロと並んで、家族が打ちそろって見るのにもっともふさわしくない番組ではあるわけで、とすれば、問題は、むしろ、紅白歌合戦の視聴率が、ついに50パーセントを大きく割り込んだという事実のほうにある。紅白の視聴率は、翌日から始まる正月のあり方を決定する数字だ。言いかえれば、伝統的な血族イベントとしての紅白共同視聴を果たしたファミリーだけが、正しい日本のお正月を迎える資格を備えた、保守本流の花マル家族なのだ。
 紅白歌合戦の視聴率は、番組の出来不出来を反映しているわけではない。出演者の歌唱力の総和を意味しているのでもない。あの45.9パーセントという数字は、大晦日の夜に、家族が一斉に打ちそろってテレビの前に座る家庭が、もはや、日本には45パーセントしか残っていない、と、そういうふうに考えるべきなのである。


【『テレビ標本箱』小田嶋隆中公新書ラクレ、2006年)】


テレビ標本箱 (中公新書ラクレ (231))

無学な母親が語る偉大な哲学/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 ・無学な母親が語る偉大な哲学
 ・個別性と他者との関係
 ・ジャイナ教の非暴力
 ・観察するものと観察されるもの
 ・歩く瞑想

『生きる技法』安冨歩

 サティシュ・クマールは自らの決意で9歳の時にジャイナ教僧侶となり、18歳でガンディーの思想と巡り会って還俗(げんぞく)した人物である。宗教性なき時代を切り開く思想を探究し、世界中を巡礼して回った。その魂の遍歴を綴った自伝である。


 思想的なインパクトはそれほどなかったが、実に様々な人物が登場し含蓄に富む言葉が散りばめられている。なかんずく、彼の母親とクリシュナムルティの二人が際立っている。


 サティシュ・クマールはジャイナ教の家庭で育った。少年時代に父親を喪っている。母親は読み書きができなかった。だが、愛情と智慧に溢れていた。折に触れて子供達にジャイナ教の思想を教えた。これがまた頗(すこぶ)る機知に富んでいて、その表現力には思わず舌を巻いてしまうほどだ――

「お母さんのお裁縫はとても綺麗だけど、一つのものを作るのに半年や一年、ときにはもっと長い時間がかかるわ。最近は同じ事をあっという間にやってしまう性能の良いミシンがあるのよ。私が探してあげようか」と姉のスラジが尋ねた。
「どうして?」と母は聞いた。
「時間の節約ができるのよ、お母さん」
「時間が足りなくなるとでもいうの? ねえお前、永遠っていう言葉を聞いたことある? 神様は時間を作るとき、たっぷりとたくさん作ったのよ。私は、時間が足りないなんていうことはないわ。私にとって、時間は使い果たしてしまうものじゃなくて、いつもやって来るものなのよ。いつだって明日があり、来週があり、来月があり、来年があり、来世さえあるのよ。なぜ急ぐのかしら」、スラジは納得しているように見えなかった。「時間を節約し、労働を節約して、それ以外の事をもっとできた方がよくないかしら?」
「あなたは無限なるものを節約して、限りあるものを費やそうとしているのよ。ミシンは金属から作られていて、世界には限られた量の金属しかないわ。それに、金属を得るためには掘り出さなければならない。機械を作るためには工場が必要で、工場を作るには、もっと多くの有限な材料が必要なのよ。掘るということは暴力だし、工場も暴力に満ちているわ! どれだけ多くの生物が殺され、金属を掘るため地下深く潜るような仕事でどれだけ多くの人が苦しまなければならないでしょう! 彼らの苦しみの話を聞いたことがあるわ。なぜ自分の便利さのために、彼らを苦しめなければならないの?」。スラジは理解したように見えた。
 スラジがうなずくのに勢いづいて母は続けた。「私の体力が足りないっていうことはないから、いつだってエネルギーがあるわ。それに私は仕事が楽しいのよ。私にとって仕事は瞑想(めいそう)なの。瞑想は、ただマントラを唱えたり、静かに座禅を組んだり、呼吸を数えたりすることだけじゃないのよ。裁縫も、料理も、洗濯も、掃除も、神聖な心持ちでなされるすべてのことが瞑想なの。あなたは、私の瞑想を取り上げようというのかしら? 針仕事で忙しいとき、私は平和な気持ちになるの。すべてが静かで、穏やかだわ。ミシンは大きな音を立てて私の邪魔をする。ミシンがガタガタいっているときに瞑想するなんて想像もできないわ」
「それに、ミシンが仕事を減らすというのは、単なる錯覚に過ぎないかもしれない。年に一つか二つのショールを作る代わりに、年に10ものショールを作る羽目になって、材料をもっとたくさん使うことになるかもしれない。時間を節約したとしても、余った時間で何をするというの? 仕事の喜びは私の宝物みたいなものなのよ」
 これはまさに真実だった。刺繍をしているとき、母はほんとうに幸せそうだった。母が作るものに同じものは二つとなかった。母は新しいパターンやデザインを作り出すことに喜びを見出していた。もちろん母は、どんなパターンを作るか前もって考えたりはしなかった。母は作りながら即興的にデザインしていった。母の針仕事の最も驚くべき点は、母がそれから多大な喜びと幸せを引き出していたことだった。


【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール/尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】


 インドの底力を見る思いがする。市井(しせい)の母親がこれほどの思想を持っているのだから。日本の政治家や宗教家は足下にも及ばないだろう。しかも独善的なところが全くない。誰もが納得できる普遍性をはらんでいる。


 日常の何気ない一言が子供を大きく伸ばすこともあれば、心ない一言が人間不信の種を植えつけることもある。親として大人として、我々はどれほどの「語るべき言葉」を持っているであろうか。線からはみ出すたびにピーピー笛を吹きまくる親は多い。だが、「生の歓び」を語る大人は少ない。


 そして何にも増して、環境破壊を暴力と捉える思想が素晴らしい。環境破壊は損得ではなくして善悪の次元にまで高められている。


 これだけの哲学を抱く母親であったが、サティシュ・クマールが還俗した時は大いに取り乱した。親のエゴがむき出しとなった。それでも、この母親なくしてサティシュ・クマールの存在はあり得なかっただろう。


 クリシュナムルティ以外にも、バートランド・ラッセルマーチン・ルーサー・キングなどが登場する。