大野純一と大野龍一


 別人だったのね(笑)。

大野純一


 1944年、東京浅草生まれ。一橋大学経済学部卒業。翻訳家。訳書にクリシュナムルティ『生と覚醒のコメンタリー 1〜4』(春秋社)、『楽園の蛇』(平河出版社)、『気づきの探究』(めるくまーる社)、『グルジェフクリシュナムルティ』『覚醒のメカニズム』『スピリチュアル・レボリューション』『クリシュナムルティの生と死』(コスモス・ライブラリー)他多数。

大野龍一


 1955年和歌山県生まれ。早稲田大学法学部卒。英国の精神科医アーサー・ガーダムの自伝『二つの世界を生きて』をきっかけに翻訳の仕事を始める。主な訳書に、J・クリシュナムルティ『人生をどう生きますか?』『生と出会う』『既知からの自由』、ドン・ミゲル・ルイス『パラダイス・リゲイン』、M・C・ネルソン『恐怖を超えて』(以上、コスモス・ライブラリー)などがある。現在、宮崎県延岡市で高校生対象の英語塾を営む。

『既知からの自由』ジッドゥ・クリシュナムルティ/大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年)


 これも微妙な感じ。品切れが近そうな予感。



既知からの自由

 私たちの生はどうしてこうも空虚、断片的で、混乱したものになってしまったのか? たんなる言葉でも観念でもない、全的な自由と生の変容は果たして可能なのだろうか? 本書でクリシュナムルティは私たちの苦悩、悲しみ、痛み、恐怖のまさにその根源にメスを入れ、セルフ=思考の罠と自己欺瞞を暴き出す。一切の権威、判断、逃避を排してじかにそれを見、見ることによって条件づけが脱落するとき、何が起こるのか? 彼は読者をその探求への旅へと誘う。M・ルティエンスが彼の教えへの最適のガイドとすべく、最大限の情熱を込めて円熟期の講話記録から編集したエッセンス集。メリー・ルーチェンス編、十菱珠樹訳『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』(霞ケ関書房、1970年)の新訳。

十妙と十不二門(じっぷにもん)


「じゅうふにもん」ともいう。天台(智ギ)の『法華玄義』に説かれた本迹の十妙(境・地・行・位・三法・感応・神通・説法・眷属・利益)を、妙楽(湛然)が十の不二門によって解釈し、『法華玄義釈籖』巻十四に詳説したもの。

  • 色心(しきしん)不二門/色法(肉体、目に見える世界)、心法(精神、目に映らない世界)
  • 内外(ないげ)不二門/内境と外境
  • 修性(しゅしょう)不二門/修行と本性(仏性)
  • 因果不二門/因位(衆生)と果位(仏)の仏性
  • 染浄(ぜんじょう)不二門/染心(無明)と浄心(法性)
  • 依正(えしょう)不二門/依報(環境)と正報(生命主体)
  • 自他不二門/自(能化〈のうけ〉の仏)と他(所化の衆生
  • 三業(さんごう)不二門/身口意〈しんくい〉の三業
  • 権実(ごんじつ)不二門/権教(三乗)と実教(一乗)
  • 受潤(じゅにん)不二門/眷属妙によって受け、利益妙によって潤うとの意か?

新約聖書「働かざるもの食うべからず」

 労働に対する嫌悪は、時の始まり以来の規範であったとすら言えるかもしれない。創世記のなかで、神はアダムとイヴをエデンの園から追放するとき、彼らに多くの呪いを掛ける。イヴには出産の苦しみと夫への服従を与え、ふたりには「君は額に汗してパンを食(くら)う」と告げ、労働生活を与える。つまり生存に不可欠な労働とは、ユダヤキリスト教の伝統にあっては原初の呪いであり、原罪に対する罰なのである。古代ギリシャ文明において神々と人間とを峻別するのは、神々が「労苦と不幸から遠く離れて」いることだとヘシオドスは書いている。彼は金の時代に生を受けられず、堕落した鉄の時代に「昼夜の絶え間ない苦痛のなかで」苛酷な労働をしながら生きるよう呪われたみずからに絶望したのだった。古代ギリシャ文化における労働とは、堕落した世界のなかで死すべき人間に課せられた呪いであり、奴隷の領分、頽廃の罰、あるいは債務であった。そこには今日の私たちが知るような労働観はなく、ただ強制のかたちがあるだけだ。農奴や召使いたちが労働について何を思ったのか、私たちには知る由もない。彼らの読み書き能力のなさに加えて、知識人たちは奴隷や召使いの経験に思いを馳せる価値を見いださなかったことから、彼らの記録はほとんど残されなかったためだ。アリストテレスにとって、こうした労働者はたんなる「人間の道具」であり、彼らにはただ敏捷さや効率の良さの違いがあるだけだ。プラトンは『国家』のなかで、彼らにできるのは働くことだけで、それが彼らに適したことであり、それに対し「市民」はより高次の物事に適していると述べている。
 旧約聖書には、怠惰や無精さを禁ずる箴言がいくつかあるが、そこでも労働は主として障害、面倒、必要、よくて義務とされる。それは自己価値や自己愛を根づかせるための機会や、純粋な満足の源泉などではまったくなかった。新約聖書パウロ書簡にある教訓は、私たちの耳に聞き憶えのあるものだ――「働きたくない者は、食べてはならない」と彼はテサロニケ人に向けて書いている――日曜礼拝の何千という説教が示唆するように、パウロは創世記にある神の呪いからの重要な変化を象徴している。彼は労働の価値を最初に広めたスポークスパーソンであった。とはいえ、パウロはまだ、労働はなによりもまず義務であると主張している。その後の説教者たちの教えにより、勤労のモラルが内面化していくのは、宗教改革期になってからのことだ。それ以前の労働は依然として強制であり、悪魔の誘惑を避ける道であり、よくて人間の本分であった。労働は人間の表現というよりも、第一に人間を貶めるものだった。


【『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ/小澤英実〈おざわ・えいみ〉、篠儀直子〈しのぎ・なおこ〉(青土社、2006年)】


働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち