古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ラメズ・ナム、平野秀典


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折84『超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』ラメズ・ナム/西尾香苗訳(インターシフト、2006年)/最新の遺伝子治療から、近い未来に可能となりそうな夢の如き治療法が列挙されている。時間がないため、日を改めて読む予定。


 118冊目『世界に一つだけのギフト 人生に幸運と奇跡を呼ぶ15の感動エピソード』平野秀典(実業之日本社、2009年)/20分くらいで読了。泣ける。というよりは、「泣かせようとする意図」にしてやられるのだ。私も泣いた。泣きながらもそんな自分が許せなくなる、という股裂き状態に陥る。道徳本の胡散臭さと同じ匂いがプンプンするよ。結局、泣けるだけで後には何も残らない。

オクタウィウス

「オクタヴィウス」よりも、「オクタウィウス」の方が検索ヒットが多い。「美しさとは調和である」ことを示した名文である。

 海を見よ。海岸の法則によってさえぎられている。どんな木であろうと見るがよい。いかに大地の内側から生気を与えられていることか。大洋を見よ。定期的な潮によって満ちたり引いたりしている。泉を見よ。絶えることのない水脈によって安定している。川に注目してみよ。常に活発な流れで動いている。では、山々のきっちりした配置、丘のうねり、平野の広がりについてどう言うべきか。動物たちが互いに対して身を守るためのさまざまな防具の一つ一つについてはどう言おうか。あるものは角で武装し、あるものは歯で身を守り、あるものは蹄の上に立つ。あるいは刺を持ち、あるいは足の速さや翼で飛んで逃げ出す。しかし何よりも、まさに我々人間の形の美しさが制作者である神をあかししている。まっすぐな姿勢、立った顔、目は見張台の上みたいに身体の最上部に位置し、他の器官もすべて砦の中のようにうまく配置されている。(『オクタヴィウス』ミヌキウス・フェリクス)


 この人、テルトゥリアヌスと並んで、いわゆるラテン護教家の代表的人物の一人である。護教家というと聞こえが悪いかもしれないが、歴史的概念としての護教家と現代の護教家はまったく関係がない。現代の護教家というのはいわば悪口のレッテルで、古くさい(ないし一見古いように見える)教義や伝統に固執し、ないし実際には自分たちの単なる精神的保守主義が知的怠慢を保持するために名目上古い教義や伝統に託してしがみつき、なりふりかまわず、あらゆる屁理屈を弄して、ないし理屈も言わずにひたすら頑固に、宗教的に見える思い込みを言い張る人たちのことであるが、歴史的な意味での護教家はそういうのとは関係がない。古代キリスト教史の一時代を画し、重要な貢献をなした人々のことである。


【『キリスト教思想への招待』田川建三勁草書房、2004年)】