古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

若き斎藤秀三郎/『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪

 ・若き斎藤秀三郎
 ・超一流の価値観は常識を飛び越える
 ・「学校へ出たら斃(たお)れるまでは決して休むな」
 ・戦後の焼け野原から生まれた「子供のための音楽教室」
 ・果断即決が斎藤秀三郎の信条
 ・斎藤秀雄の厳しさ

『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』民主音楽協会編


 文句なしの傑作評伝。日本エッセイストクラブ賞を受賞しているが、本書の内容は賞を軽々と凌駕している。130人のインタビューと資料だけでは、ここまで書けない。中丸美繪は恐ろしいほどの執念で斎藤秀雄という人物を知ろうと奮闘努力したはずだ。それは多分、“求道”の名に値するほどの作業だったに違いない。そうでもなければ、これほどの作品が生まれるわけがないのだ。


 中丸は斎藤の弟子達に会った。彼等は斎藤の分身だった。しかしながら、弟子が語る師匠の姿は部分的なものに過ぎないし、当然ではあるがバイアスのかかった情報となる。そして、著者の内部で再構成された斎藤秀雄が一冊の書物となって誕生した。斎藤秀雄は本書の中で確実に生き続けている。栄光と矛盾をはらみながら、生き生きと躍動している。


 すまん。昂奮し過ぎたようだ(笑)。


 秀雄の父・斎藤秀三郎は明治・大正期を代表する英語学者だった。明治という激変の時代は、頑固でありながらも型破りな人物を輩出したが、斎藤秀三郎は桁外れの個性の持ち主だった――

 19歳で仙台に戻って英語塾を開き、その後、仙台英語学校を創設した。詩人の土井晩翠はその1回生である。次いで新設された第二高等学校にも勤めたが、英語主任の米国人と諍いを起して退職した。
 父の言葉に従い、知人を頼って岐阜中学に赴任するが、校長から中等学校英語教師の資格試験を受けるよう求められたため、「誰が私を試験するのか」と言い放って再び辞職した。
 秀三郎は生地を聞かれると、機嫌のよいときには「間違って仙台に生まれました。実はロンドンの真ん中で生れるはずだったのですが」と答えていた。福原麟太郎は、「日本の英語」で語っている。
「斎藤氏は豪傑で酒を好んだ。酔っぱらって帝劇へ行って(中略)西洋人のやっている芝居を見た。てめえ達の英語はなっちゃいねえ、よせ、よしちまえ、というようなことを英語で吐鳴り散らすので、座方がお願いして退去して貰ったという話を聞いているが、先生には、日本へ来ている英米人など眼中になかった。英米人を傭うときには自分で試験した」
 秀三郎は赴任先のいたるところで問題を起こし、職場は長崎鎮西学院から名古屋第一中学へと移っていった。たまたま東京から知人の教師を訪ねてきた学習院大学教授が秀三郎とめぐり会い、英語の実力に驚嘆した。これがきっかけとなって、第一高等学校に教授として就任することになった。1893年、28歳のときのことである。
 それから3年後、31歳になった秀三郎は神田錦町正則英語学校を創立すると、自ら校長となった。恐ろしく短気な秀三郎は、板書のときには左の手で消しながら右手で書いていくという猛スピードぶりだった。授業中に生徒が立つと、振り向いて一喝した。生徒が「便所に行くのです」というと、「そこでおしなさい」といった調子である。授業は一週に50〜60時間も受け持ったことすらある。生涯を通しての著書は、『英会話文法』『実用英文典』4巻をはじめ200冊以上に及んだ。


【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)以下同】


「西洋人のやっている芝居」とは、来日中のシェイクスピア劇団だったようだ(Wikipediaによる)。秀三郎自身は一度も海外へ行ってない。人間が本気で学ぼうと決意すれば、時代や条件など関係ないことを彼は示している。


 また、秀三郎は時間に厳格だった――

 宮城の中で打たれた空砲は、その周辺一帯に鳴り響いた。
「ドーン」という正午を報せる音がすると、斎藤家の書生たちは客人の応対中であろうと、飯炊きの途中であろうと、秀三郎の著書の検印を捺している最中であろうと、すべての仕事を放り出して、いっせいに屋敷のなかに備えつけてある時計に向かって走り出すのだった。そして自分の受け持ちの時計という時計の針を合わせた。秀三郎は時間に厳格だった。
 正則英語学校でも、どんなに講義が途中であろうと秀三郎は板書の手を止め、終業のベルと共に教室を出るのである。家路の途中に床屋に寄っても、何分で刈るように申しつけると、たとえ散髪が途中でも帰ってしまうという徹底ぶりだった。
 津田塾大学の前身である女子英語塾がすぐ近くにあったが、番町で市街電車を降りた英語塾の学生たちは、斎藤家の玄関にある正確無比な大時計で時刻を合わせたという。


 これほど時間にうるさかったのは他でもなく、英語を研究するためだった。「自分には7人の子があるから、その結婚式のために一生の間に7日間だけ勉強時間を犠牲にせねばならない」とまで言い切った。家族であっても父親と話すためには書生を経由しなければならなかった。斎藤秀三郎は英語に命を懸け、英語と心中した。


竹下和男の良書との出会い