古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

エリザベス・ムーン


 1冊読了。


 31冊目『くらやみの速さはどれくらいエリザベス・ムーン小尾芙佐訳(早川書房、2004年)/傑作。自閉症のリアリティはマーク・ハッドン著『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(早川書房、2003年)に分(ぶ)があると感じたが、ストーリー性については本書に軍配が上がる。ネビュラ賞受賞作品。時期を同じくして発行されていることも興味深い。ダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』(早川書房、1978年)を「選択後」とすれば、本書は「選択前」に重きが置かれている。人生は常に選択という十字路に立たされている。感情と理性が交錯し、時に過ちを繰り返しながらも、人は「よりよき人生」を歩もうと努める。主人公のルウは自閉症治療を受けるのかどうかが、大きなテーマとなっている。人生のほろ苦さを巧みに描いて秀逸。

法の生命は闘争である/『権利のための闘争』イェーリング

 法律を学ぶ者にとっては古典か。随分とまた威勢のいいヤンキーがいたもんだ。

 法の目標は平和であり、それに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害にそなえなければならないかぎり――しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう――、法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは、国民の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。
 世界中のいっさいの法は闘いとられたものであり、すべての重要な法規は、まずこれを否定する者の手から奪いとらねばならなかった。国民の権利であれ、個人の権利であれ、およそいっさいの権利の前提は、いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法はたんなる思想ではなくて、生きた力である。だから、正義の女神は、一方の手には権利をはかるはかりをもち、他方の手には権利を主張するための剣を握っているのである。はかりのない剣は裸の暴力であり、剣のないはかりは法の無力を意味する。はかりと剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、そのはかりをあつかう技術とが均衡するところにのみ、完全な法律状態が存在する。
 法は不断の努力である。しかも、たんに国家権力の努力であるだけでなく、すべての国民の努力である。法の生命の全体を一望のもとに見渡せば、われわれの眼前には、すべての国民の休むことのない競争と奮闘の情景がくりひろげられている。その光景は、すべての国民が経済的な、および精神的な生産の分野でくりひろげているものと同じである。自分の権利を主張しなければならない立場に立たされた者は、だれしもこの国民的作業に参加し、それぞれのもつ小さな力を、この世で法理念の実現にふりむけるものである。


【『権利のための闘争』イェーリング/小林孝輔、広沢民生訳(日本評論社、1978年)】


 まるで、シェリフ(保安官)だ。できれば、これを先住民の人々に伝えて欲しかった。きっと、法律で飯を食っている連中は、法律を絶対視したがるのだろう。では尋ねるが、法律がハンセン病患者に何をしたか? 薬害エイズの人々に何ができたか? はたまた、首相の靖国参拝違憲なのか合憲なのか?


 法律が絶対的な権威と化す社会は怖い。しかし、年がら年中改正される法律も当てにならない。そして我々日本国民は「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない」という憲法を持ちながら、自衛隊の存在を認め、米軍という戦力を間接的に保持しているのだ。


 解釈次第で権力者に都合のよい判決を下すような法律であれば、「この町じゃ、俺が法律だ」という方がわかりやすい。真の義人が権利を裁定し、善悪を判断すればよい。本気でそう思う。「酋長(しゅうちょう)制」とかにすりゃいいんだよな(笑)。


ピアノを弾く探偵/『ピアノ・ソナタ』S・J・ローザン

 ミステリにしては随分と内向的な主人公だ。アルバート・サムスンをおとなしくしたような印象。で、中味が面白くないかというとそうでもない。個性的な脇役がぐいぐいストーリーを引っ張ってゆく。


 探偵のビルはピアノが趣味だ。ただし、人前では弾かない。折に触れてピアノのシーンが挿入される――

 タイマーが鳴る前に弾き終えたが、とくに終盤での速度が足りなかった。タオルで顔を拭(ぬぐ)いながら、その部分をもっと弾き込まなくてはと思った。だが、全般に、いい気分だった。今朝よりはるかにうまく、曲の核心に迫って弾いている。間もなく、曲を十分理解し、時計職人のように小さな部分を調整し、磨き上げることができるだろう。その時、音楽がわたしにもたらしたもの、わたしが音楽にもたらしたものが、指から紡(つむ)ぎ出されてくる。
 もう一度弾きたいと無性(むしょう)に思った。形を成しつつあるものが実際に姿を現すまで、何もせずに数日弾き続けたい。今のままでは、あっという間に曲が消え失せるかもしれないし、そうなるともう取り戻せないことがある。このソナタを弾く心構えができるまで何年もかかった。今さら、それを失いたくない。


【『ピアノ・ソナタ』S・J・ローザン/直良和美訳(創元推理文庫、1998年)】


 いいねー。文章の底に何とも言い難いリリシズムが流れている。シューベルトの「ピアノ・ソナタ」を聴いて驚いた。主人公ビルの雰囲気にピッタリだ。


 不正を働くインサイダーとアウトサイダーの狭間で、ビルは執拗な捜査を続ける。この物語の真の主人公は「常識」だ。