「オオカミ狩り」ウラジミール・ヴィソツキー


 だみ声シリーズ、その三。タイトルは多分合っているだろう。CD『大地の歌』は持っているのだが、確認していない。ヴィソツキーのナンバーは新井英一が何曲かカバーしている。

ガンディーは不可触民制撲滅運動を起こしていない/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール


「会議派」とはインド国民会議のこと。第一次世界大戦後、ガンディーが主導権を握り、ネルーが後に続いた。ガンディーは政治家だった。

 会議派について、アンベードカルは、「会議派は不可触民の廃止を党員に義務付けていない。ガンディーは不可触民制撲滅運動を起こしてもいないし、カーストヒンズーと不可触民間の友愛のために断食をしてもいない。不可触民階級の安全は、政府、会議派から自由であるというところにある。われわれの道はわれわれ自ら選ばねばならない。自分たちの不満は中央議会を通じて反映し解決しよう」と述べ、会議派は本来国民的運動であり、一政党であってはならない。しかし、時がくれば、会議派の多くは、その属する階級の陣営に戻り、一般大衆の下に帰らぬのは確実だと断言した。


【『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール山際素男訳(三一書房、1983年)】


 インドにあってガンディーは正しい光を放っていた。しかし、アンベードカルという太陽が昇ると、星の光のように見えなくなった。「より正しき人」が出現すると、それまで正しかった人物が悪人となる場合がある。善悪の反転。ポジとネガ。薬と毒。オール・オア・ナッシング。


 思想の吟味は、金メダルと銀メダルというわけにはゆかない。アンベードカルを知れば知るほど、ガンディーの欺瞞に対する怒りの念が沸々とたぎってくる。正義の拠り所は「悪に対する怒り」だ。


アンベードカルの生涯 (光文社新書)

宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」との相違を意識した合目的的な行為/『はじめてのインド哲学』立川武蔵


 忙しくて書く時間がない。「忙=心を亡くす」――ウム、わかっている。わかっていながら忙しさにかまけているということは、2乗の加速度をつけて心が亡んでいるのだろう。今は5日の早朝だ。

 現世拒否的態度の緩和とならんで、タントリズムの特性として、儀礼の重視をあげることができる。第2期(※紀元前1500-500年/バラモン中心の時代)のヴェーダの宗教は、儀礼中心主義の立場をとったが、第3期(※紀元前500-後600年/仏教などの非正統派の時代)の仏教の時代には、少なくとも出家者集団の中では、儀礼が彼らの究極的な目的、つまり、悟りを得るための重要な手段として考えられることはなかった。だが、第4期(※紀元600-1200年/ヒンドゥイズム興隆の時代)においては、ヴェーダの宗教の儀礼中心主義がかたちを変えて復活するのである。
 ところで、儀礼とは、宗教の行為エネルギーが一定の型に流れるようにあらかじめ設定された回路であるといえよう。宗教は常にある目的を達成しようとする行為形態として現れる。水が高いところから低いところに流れるように、宗教行為は、「聖なるもの」と「俗なるもの」との区別があってはじめて行われる。「聖なるもの」と「俗なるもの」という「宗教における二つの極」の間に「落差」がないときには、宗教現象はあり得ない。それは単なる日常あるいは俗化された世界である。
 宗教とは、「聖なるもの」と「俗なるもの」との相違を意識した合目的的な行為である。そして、儀礼とは、その「宗教における二つの極」の間の相違を利用して、あるいはその相違がよりいっそう明白になるように仕組まれた行為の型なのである。したがって、儀礼行為は、社会あるいは集団の生活の仕組、あるいは季節ごとの行事というかたちで現れたり、それらの一部となったりする。


【『はじめてのインド哲学立川武蔵講談社現代新書、1992年)】


 タントリズムとは密教のことである。様々な見方があるのだが、最澄空海密教とするのが一般的だ。それぞれ天台密教台密)と真言密教東密)と呼ばれている。キーワードは「曼荼羅」と「儀式」。この平安期の二大スターからもろに影響を受けたのが鎌倉仏教なので、日本仏教は全体的に密教化していると言ってよい。


 立川武蔵はインド思想という枠組で仏教を捉える傾向が顕著で、やや矮小化が行き過ぎている。そうであるにもかかわらず説得力があるのは、文章が明晰なため。歴史や文化の変遷を巧みに捉えているものの、思想的吟味に欠けるきらいがある。


 儀式が重要視されると、儀式は細分化し煩雑化する。250とか500にも上る戒律がそうだ。「緩やかな自制」が「教団の規則」と化した時、儀式は教条主義となって人間を束縛する。エントロピーは増大し、ルールは細分化されるってわけだ。


 理想(=聖なるもの)と欲望(=俗なるもの)との溝を埋め、煩悩を菩提へと転じる儀式性が望ましい。聖なるものが「あの世」にしか存在しないとすれば、そんな場所には行きたくない。いかなる聖人君子であろうとも、ウンコをしている事実を忘れてはなるまい。


はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)