疑惑の不動産7社グループ 各地の郵政跡地でトラブル

 郵政問題に詳しいジャーナリストの中村知空氏はこう言うのだ。
日本郵政オリックスの取引を見ても分かるように、郵政物件の入札は経過が不透明な上、落札業者の実態もよく分からない。だから正規の段取りや事前の説明が不十分で、落札後のトラブルが絶えないのです。『郵政民営化はバラ色』と、小泉内閣が推し進めた政策は本当に良かったのか――を含め、入札についても、誰がどう関わったのかを精査するべきです」


日刊ゲンダイ 2009-02-05

小田嶋隆の正論/『安全太郎の夜』小田嶋隆


 宮崎勤に関する報道のあり方に疑義を呈したテキスト。小田嶋隆の気骨が窺える。

「異常だ」
 という人もいるかもしれない。
「気味が悪い」
 と思う人もいるだろう。
 が、こういう状態(私の部屋、ミヤザキの部屋、そのほかの名もないたくさんの若者たちの部屋)は、とりたてて珍しいものではない。
 そしてマスコミさんたちは、こうしたとりたてて珍しくもない部屋の風景を「異常だ」というふうに結論づけようとした。
「6000本ですからね、なにしろ」
「ええ、なにしろ6000本ですからねえ」
 ミヤザキがどうして犯罪を犯したのかということを報道する以前に、彼らはミヤザキの部屋の風景を裁き、そういう部屋に住んでいたミヤザキの生活を裁き、さらには、そうした部屋のあり方そのものを裁こうとした、というふうに私は、若干の被害妄想を含みながらも、そう判断している。


【『安全太郎の夜』小田嶋隆河出書房新社、1991年)以下同】


 メディアは覗き屋である。メディアの目的は大衆の欲望を刺激することだ。日常から乖離すればするほど大衆は興奮する。宮崎勤の“異常”は格好の餌食となった。

 たぶん、彼らには、ミヤザキの部屋の「密室性」が、不気味に見えたのだろう。
 たしかに、あれは、不気味だった。
 が、誰の部屋だって、いきなり報道陣みたいなものに踏み込まれた状態で映像化されたら、あの程度には不気味なものだ。
「オレの部屋はあんなじゃない」
 というおっさんもいるだろうが、現代の若い独身の男の部屋に限っていえば、大体においてあんなものなのだ。
 そうだからこそ、バカな推理作家や本しか読んでいない心理学者は「あなたのまわりにも第二のミヤザキが」式の短絡をしてしまったわけなのだ。
 仮に、彼らの言うとおりに、ああいう部屋に住んでいる人間が潜在的にはミヤザキなのだとしたら、日本には、ミヤザキが2600万人ぐらいはいる勘定になる。
 私の部屋だって、うまいこと片づいていない時には、十分、あの程度の不気味さは持っているし、もっと不気味な部屋を私はいくつも知っている。
 しかし、不気味な部屋に住んでいるということが、そのままその部屋の住人の不気味さの証拠になるわけではない。
 むしろ、ある種の不気味さを保っていられるからこそ、その部屋は、その住人にとって「個室」であり得るのだ。
 誰が見ても公明正大で、人に見られて困るようなものがひとつも隠されていないような部屋は、部屋と呼ぶに値しないし、また、そういう部屋に住んでいる人間は、人間と呼ぶに値しない(っていうのは、大げさだけど、オレはつまらない野郎だと思うね)。
 さて、ともかく、愛すべきマスコミの皆さんや、その享受者であるところの愛すべき庶民の皆さんは、あの部屋を不気味だと思った。
 そこまでは良い。
 確かに、個人の部屋(それも、人を招くことを意識して片づけていない、ナマの状態)というものは、他人の目から見ればいつだって不気味に映るものだからだ。
 問題は、その後だ。
 彼ら(おまえらのことだぜ)は、あの部屋を裁こうとした。
 このことを、なによりも私はいやらしいことだと考えている。
 人の心に秘密があるように、人間の生活には、個室があり、密室があり、人知れぬ趣味があり、自分だけのためのコレクションがある。このことを認めなかったら、要するに人間というのは、「社会的動物でしかない存在」になってしまう。
 善良で、協調的で、社交的で、何の秘密も持たない、親切で、礼儀正しい、「サザエさん」の登場人物みたいに無邪気で前向きな1億人の日本人……。
 バッカじゃなかろか。
 あらゆる人間が、建設的で心暖まる話しか話題にしないような、そんな世の中が理想だと考える連中がいるのは仕方がないにしても、すべての人間にそうしたふるまいを強要する権利は誰にもないはずだ。
 言うまでもないことだが、この世の中には、人間がした行為を裁く法律はあっても、人間がアタマの中で考えていることを裁く法律はない。
 ところが、今回の事件を通じて、あなたがた(と、ついに二人称を使いはじめる)がしようとしたことは、ミヤザキの行為をではなく、ミヤザキの生活姿勢や性格や家庭環境を裁くことであり、彼のアタマの中味を裁くことだった。
 ということはつまり、我々(いっそ、一人称を使うことにしましょう)は、ミヤザキのみならず、人間一般の「孤独」を裁こうとしたということなのだ。


 秀逸なメディアリテラシーである。小田嶋は宮崎擁護を目的としているわけではなく、犯罪報道のあり方に一石を投じているのだ。見事なバランス感覚で本質を捉えている。


 テレビという害毒が現代人の精神を蝕んでいる。テレビを消して、活字と向き合うことなくして、批判力が育つことはない。


安全太郎の夜

服従心理のメカニズム/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス

 あのミルグラムである。服従実験で社会心理学の有効性を証明し、放置手紙法によってスモールワールド現象を明らかにしたミルグラムだ。ユニークな発想と巧妙な実験法が群を抜いている。アイディアマン。あるいは知能犯。

 そしてミルグラムの研究が出版された1963年までには、ナチスが行った恐ろしい行為に関する研究がすでにたくさん発表されていた。そのなかで、彼の研究が特筆すべきものとなったのは、実験室における科学的な研究手法を使って、当時は実現不可能であるかに思えた二つの目標を達成したからである。一つは、冷静な分析をするのが難しいテーマに、ある程度の客観性(他の方法と比較しての話だが)を持ち込んだこと。もう一つは、破壊的な服従がごく日常的な場面においても起こりうることを示したこと。そのため、この実験を知った人は、その実験が示す望ましくない情報を自分とは無関係なものとして切り捨てることが難しくなったことである。


【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス/野島久男、藍澤美紀訳(誠信書房、2008年)以下同】


 Wikipediaには「『アイヒマンとその他虐殺に加わった人達は、単に上の指示に従っただけなのかどうか?』という質問に答えるため」に実験が行われたとあるが、本書にそのような記述はない。ソロモン・アッシュの下(もと)で同調行動の実験を行っていたミルグラムが、服従実験を思いつくのは自然な流れであろう。

 権威ある人間からの合法的な命令であると思いさえすれば、それがどんな命令であっても、良心の呵責に苦しむこともなく、非常に多くの人が、言われたとおりに行動をしてしまう……。
 私たちの研究の結果から得られる教訓は、次のようなものである。
 ごく普通に仕事をしている、ごく普通の人間が、特に他人に対して敵意を持っているわけでもないのに、破壊的な行為をする人たちの手先になってしまうことがあり得るのである。


 ──スタンレー・ミルグラム、1974年


 この映像は時折テレビで紹介されている。サクラである「学習者」は事前に心臓が悪い旨を伝え、電気ショックを与えられるたびに大声で叫ぶが、殆どの被験者は指示通りに電圧を上げ、更に驚くべきことにクスッと笑っていた。


 服従のメカニズムは日常生活のそこここに存在する。例えば会社内のルールは、世間の常識とは全くの別物だ。営業マンに人権はない。給料の額を天秤にかけて、服従レベルとのバランスを保っている。そう。ダブルスタンダード


 人間は所属するコミュニティの数だけルールを有している。組織という組織は、序列という秩序によって構成されている。例えば泥棒の集団があったとしよう。このコミュニティにおいては「盗む」ことが「正しい」ことになる。組織においては、上司に額づくことが正しい価値となるのだ。「善」が不変であるのに対して、「正義」はコロコロ変わるってわけだ。


 淫祠邪教マルチ商法の類いは決してなくなることはない。そこに集うのは「特殊なルール」に従っているだけの善良な人々である。相対的な批判力を欠いた人が存在する限り、権威という怪物は無理難題を吹っかける。結局、権威を支えているのは沈黙であることが明らかだ。


服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産