古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ロバート・ラドラム


 1冊読了。


メービウスの環(下)ロバート・ラドラム/駄作と言うのは簡単だ。筋運びがまだるっこい上、不要と思われるシーンもある。しかし、だ。時々痺れるテキストが顔を出し、ラストには今までにないひねりを加えている。これだけでも読んでよかったと思わせる。ラドラムは2001年3月に逝去。新作を読めなくなった事実が心を暗くさせる。山本光伸の解説は持ち上げ過ぎ。その商魂が遺作には相応しくない。ラドラムファンにとっては、感慨深い駄作として記憶に留められることだろう。

みぞうゆう?ふしゅう?? 麻生さんは漢字苦手?

 麻生首相が最近、言葉遣いの誤りを連発している。
 12日午後、日中関連イベントであいさつした首相は、「これだけ『はんざつ』に両首脳が往来したのは例がない」「(四川大地震は)『みぞうゆう』の自然災害」などと語った。手元に用意した原稿にはそれぞれ「頻繁(ひんぱん)」「未曽有(みぞう)」と書かれており、誤読だったようだ。
 7日の参院本会議でも、植民地支配と侵略への反省を表明した村山首相談話を「ふしゅう」すると表明した。首相は「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」と読む間違いを国会で何度も繰り返しており、12日の衆院内閣委員会では、質問に立った民主党議員が首相に近い甘利行政改革相に、「首相が日本語を正しく発音しないのも何ですから、『とうしゅう』と読むんだと伝えてほしい」と苦言を呈する場面もあった。
 秘書官らに指摘を受けた首相は、「おれ、そんな風に言っているかなあ」とこぼしたといい、自覚はあまりないようだ。
 12日夜も、間違いの多さを指摘した記者団に平然とこう答えた。
「それは単なる読み間違い、もしくは勘違い。はい」


【読売新聞 2008-11-13】


「政治家にとって言葉は命」と言われるが、そうでもないようだ。この他にも、「詳細(しょうさい)」を「ようさい」と読んでいたとのこと。麻生首相は、せっかく漫画本で学んだ漢字を、帝国ホテルやホテルオークラのバーで酒を呑むたびに、きれいさっぱり忘れているのだろう。無知は決して恥ずべきことではない。それを自覚している限りは。「勘違い」と開き直るところが馬鹿丸出し。

空間の支配権、制空権をどちらが握るか/『洗脳原論』苫米地英人

 公安からの依頼を受け、オウム真理教幹部の洗脳を解除したあらましが書かれている。私が読んできたベッチー本の中では最も文章が硬質。例えば、サブリミナル効果を扱ったものではウイルソン・ブライアン・キイの『メディア・セックス』があった。しかしながら、洗脳そのものについて踏み込んだ内容の作品は見当たらない。本書が嚆矢(こうし)と言っていいかもね。

 ここで、デプログラミングという作業を行なう際の注意点を述べておきたい。
 まず脱洗脳は一瞬の勝負で決まるということだ。これは最も初歩的であるが、重要な要素である。最初会ったときに、誰が空間を支配するかである。この、空間の支配権、制空権をどちらが握るかというのは、無意識レベルでの出来事であるので、単に「あっ、あのすごい有名な先生だ」などと思ってもらえるようなレベルでの立ちいふるまいでは不足である。「この人からオーラを感じるぞ」などと思ってもらえるならば、ある程度の制空権を握ったことになるだろう。しかし、そのように相手が意識して感じるようなレベルの出来事だけではなく、無意識レベルにおいても、内部表現と呼ばれる脳内の表象に、外界の環境によってホメオスタシス機能が作用したとき、脳の内側の表象の主導権をどちらが握るかという勝負である。要するに文字どおり、どちらが「心をつかむ」かである。この空間の制空権を握れれば、そのデプログラミングの第一歩は成功したといってよい。


【『洗脳原論』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(春秋社、2000年)】


 第一印象のことを小難しく言っているだけではない。理論的な根拠の具体性がよくわかる。オーラとは“逆らい難い魅力”といってよい。例えばの話、私の隣に頗(すこぶ)る付きの美人がいたとしよう。するとどうだ、ミスター横柄だった私はたちまち言いなりになってしまう。ここ掘れワンワン、だよ。左右どちらでも“お手”をすることになるのだ。これが、「空間の支配権、制空権」ってことだ。


 主導権というと、まるで手垢のついた言葉に聞こえるが、心と心、生命と生命は確かに綱引きをしているような様子が窺える。ヒエラルキーとは異質のものだ。五感が刺激された瞬間に意識は変容している。でもって、意識下は意識できないもんだから、もっと振り回される結果となる。ま、「一目惚れの原理」といったところだ。


 それを、ホメオスタシス=身体機能の恒常性にまで結びつけるところが、苫米地英人の独創的な視点である。