『臨死体験』をめぐる書き込み 1

小野不一


 立花隆の同書の所感を「逆耳」にて連載中ですが、ご意見を募りたい。昨日、発行分が上巻の後半部分に当たるので、あと2回書く予定。書きながら少し見えてきたことがあります。

小野不一


 古本屋仲間より、「もっと立花批判が出てきてもいい」との意見あり。

山野健一郎

 立花隆の同書の所感を『逆耳』にて連載中ですが、ご意見を募りたい。


「逆耳」より――

 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らし青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻(いぶし)銀のような濃緑の斑点をつけていた。


 本題からズレますが、上記内容と殆ど同じ写真が、昔から(私も中学地理の授業で見た)存在するのも事実です。(但し、いつ撮影されたものかわかりませんが)インド半島とセイロン島の間にアダムズブリッジという大規模な砂嘴(さし)があり、それを説明するのに地理等の授業で使われるものです。

小野不一

 本題からズレますが、上記内容と殆ど同じ写真が、昔から(私も中学地理の授業で見た)存在するのも事実です。(但し、いつ撮影されたものかわかりませんが)


 私の記述が誤っておりました。ガガーリンは衛星軌道に達したのであって、月に行ったのはアポロでしたね。いずれにしても、ユング臨死体験で見た地球の姿は、誰一人知るべくもないものなのです。


 つまりこの脈絡は、見えるはずのないものを見たということが体外離脱を雄弁に証明しているのではないか、ということです。

山野健一郎


 土曜日にたまたま養老孟司と古舘一郎のテレビでやっていたのですが、現在では側頭葉への刺激によって人工的に臨死体験ができるようです。臨死体験に限らず神秘的な体験も脳のメカニズムとしてある程度は説明がつくようです。ただし、臨死体験や神秘体験の説明ができるからと言って、それは神(宇宙の主体的な意志)の存在や死後世界の存在の反証ということにはならないし、その存在を証明できるわけでもないので、現段階では誰も神の存在や死後世界の存在を有るとも無いとも断言できないという旨のことを言っておりました。私もなるほどと思いました。

 仮に、死んで一切が消滅してしまうという考えを認めてしまえば、自殺を思いとどまらせることはできません。


 現段階では、認めることも認めないことも、個人の自由だと思っています。個人的には将来説明のできる時が来ると思っています。

小野不一

 土曜日にたまたま養老孟司と古舘一郎のテレビでやっていたのですが、現在では側頭葉への刺激によって人工的に臨死体験ができるようです。臨死体験に限らず神秘的な体験も脳のメカニズムとしてある程度は説明がつくようです。


 立花が下巻の最後で挙げている説です。ワイルダーペンフィールドという脳神経の大学者が唱えた説。側頭葉のシルヴィス溝という部分に刺激を与えると、臨死体験そっくりの状態となる。これはてんかん患者の治療から判明したもの。ところがこれだけでは説明できないことがあるのです。体外離脱、一生のパノラマ回顧などが現われるのは間違いないようですが、臨死体験者の多くが語る光に包まれた状態を説明できないのです。側頭葉の中で臨死体験が行われているとすれば、真っ暗闇でなければならないはずなのです。


 また、仮に側頭葉で全てが説明されたとして、そこから導き出される結論は何なのでしょう? 「だから、死後の生命は存続しない」ということを証明できたことになるのでしょうか? 私はそうは思えません。


 いずれにしても、脳内現象説でも現実体験説でも説明できないというのが現状です。それを説明したがるのは科学の勝手でしょう。しかし、その間にも人は死んでゆくのです。説明されるようになったとしても、人間の生き方が変わるとも思えません。これが科学の限界ではないでしょうか。科学の土俵で白黒がハッキリすることは多分、ないでしょう。ケリをつけるのは哲学だと私は踏んでます。

山野健一郎

 体外離脱、一生のパノラマ回顧などが現われるのは間違いないようですが、臨死体験者の多くが語る光に包まれた状態を説明できないのです。


 うろ覚えですが、このことは、「光体験」が脳にプログラムとして存在しているのではないか(?)というようなことを番組で触れていたように思います。

 また、仮に側頭葉で全てが説明されたとして、そこから導き出される結論は何なのでしょう? 「だから、死後の生命は存続しない」ということを証明できたことになるのでしょうか? 私はそうは思えません。


 それは、先にも書きましたが、番組でも同様なことを言ってました。

 いずれにしても、脳内現象説でも現実体験説でも説明できないというのが現状です。それを説明したがるのは科学の勝手でしょう。


 番組は、このようなこともあるという感じで、それによって強引に全ての説明をしようというものでは無かったように思います。

 しかし、その間にも人は死んでゆくのです。説明されるようになったとしても、人間の生き方が変わるとも思えません。


 もし仮に、神や死後世界の有無が明確になった時、私には人間の生き方も大きく変わるように思えます。

 これが科学の限界ではないでしょうか。科学の土俵で白黒がハッキリすることは多分、ないでしょう。ケリをつけるのは哲学だと私は踏んでます。


 よく考えれば確かに全く小野さんの言われるとおりですね。森羅万象宇宙全てのことが解明できない限り、あるいはできたとしても、科学によって、神や死後世界の有無の完璧な証明は無理かもしれません。そうであるならそれらの有無の完璧な証明がないままに現に生きている我々は、それらの存在の有無をオノレ自身の哲学を拠り所に(場合によっては流動的に)生きるしかないように思えます。

小野不一

 うろ覚えですが、このことは、「光体験」が脳にプログラムとして存在しているのではないか(?)というようなことを番組で触れていたように思います。


 光というのは後頭葉という部分で認識されるらしいのですが、これが機能してない臨死体験があるとのことです。また、先天性の全盲だった方が、臨死体験によって様々な光景を目撃したことも確認されています。

 もし仮に、神や死後世界の有無が明確になった時、私には人間の生き方も大きく変わるように思えます。


 私も同感です。また、それによってのみ生命の尊厳性を確立できると思います。

 森羅万象宇宙全てのことが解明できない限り、あるいはできたとしても、科学によって、神や死後世界の有無の完璧な証明は無理かもしれません。そうであるならそれらの有無の完璧な証明がないままに現に生きている我々は、それらの存在の有無をオノレ自身の哲学を拠り所に(場合によっては流動的に)生きるしかないように思えます。


 死を自覚した生き方が、生を充実させるはずです。不老不死の薬ができたら人類はどうなるでしょうか? 誰も努力しないでしょうし、頑張ろうとしなくなるでしょう。そこには完璧な“無気力の世界”が現われることでしょう。

赤マント


 考えれば考えるほど重いテーマですね(笑)。自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか 、今のところわたしには何とも言えません。来世を信じて自殺した人もいるのではないでしょうか。ところで最近自然科学の入門書ばかり読んでいますが、読めば読むほど科学と哲学、宗教の境界が分らなくなって来ます。例えば物質は全て原子(厳密に言えば素粒子)からなっているとされていますが、これは 実際に私たちが電子顕微鏡で見ることができるから 科学なのであって、そうでなければ全く哲学ですよね。 相対性理論にしても、ほとんど哲学的認識論ですよね。 宇宙論や進化論などはまだ解明されていない部分が多いだ けに入門書を読んでいても、もっと哲学的な色彩が濃いで す。 で、何を言いたいかといいますと、私たちは「明らかなこと=科学、明らかでないこと=哲学、宗教」と分類しているのではないでしょうか。


 だとすれば「科学的に証明」という言葉は全く意味をなさないのでは。科学的でない証明とはなんでしょう。 何かを証明しようとすれば科学的にならざるを得ない、それは、証明あるいは解明しようとする姿勢そのものを科学的と呼んでいるからではないでしょうか。ですから小野さんが「科学の限界」と言うとき、それはこの世の「明らかさの限界」とイコールなのだな、と思うのです。そういう意味で哲学はこの問題に決着を付けないと思います。それは、科学の場合とは逆に、決着のつかないものを哲学とわたしたちが呼んでいるような気がするからです。


 ここでまた「では証明とはなんぞや」というちょっとやっかいな問題がでてきますが。

小野不一


 赤マントさん、素晴らしい書き込みをありがとうございます。大きなヒントを与えて下さったことに感謝申し上げます。

 考えれば考えるほど重いテーマですね(笑)。自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか今のところわたしには何とも言えません。


 いみじくも山健さんがお書きになったように、「生き方が変わるかどうか」が私にとっては最も重要なテーマなのです。

 来世を信じて自殺した人もいるのではないでしょうか。


 こうしたケースに問題となるのは「死ねば楽になるのか」というテーマとなりますね。

 ところで最近自然科学の入門書ばかり読んでいますが、読めば読むほど科学と哲学、宗教の境界が分らなくなって来ます。


 僭越ですが、あっさりと申し上げれば演繹法帰納法の違いです。

 例えば物質は全て原子(厳密に言えば素粒子)からなっているとされていますが、これは実際に私たちが電子顕微鏡で見ることができるから科学なのであって、そうでなければ全く哲学ですよね。


 原子の例を見てもわかるように、科学というのはどんどん細分化していくわけです。それで「分かる」となるわけですな。これに対して仏法的な見地は何かというと「悟る」になるわけです。

 相対性理論にしても、ほとんど哲学的認識論ですよね。宇宙論や進化論などはまだ解明されていない部分が多いだけに入門書を読んでいても、もっと哲学的な色彩が濃いです。


 科学が相対的な世界観であるのに対して、宗教は絶対的、あるいは根源的な色彩が強い。

 で、何を言いたいかといいますと、私たちは「明らかなこと=科学、明らかでないこと=哲学、宗教」と分類しているのではないでしょうか。


 私は、知識と智慧の違いだと思います。智慧とは、生きる力に裏打ちされた確信と言えるかも知れません。生活とは生命活動の謂いです。故に、その生命活動によりよき変化を与える何かが必要となってくるのではないでしょうか。それが信念であり、哲学・宗教であると考えます。知識だけでは変化が乏しいことと思われます。

 だとすれば「科学的に証明」という言葉は全く意味をなさないのでは。科学的でない証明とはなんでしょう。何かを証明しようとすれば科学的にならざるを得ない、それは、証明あるいは解明しようとする姿勢そのものを科学的と呼んでいるからではないでしょうか。


 これは全く仰る通りです。科学的態度、科学的証明は不可欠です。哲学・宗教に対しても同様です。

 ですから小野さんが「科学の限界」と言うとき、それはこの世の「明らかさの限界」とイコールなのだな、と思うのです。そういう意味で哲学はこの問題に決着を付けないと思います。それは、科学の場合とは逆に、決着のつかないものを哲学とわたしたちが呼んでいるような気がするからです。


 決着がつかなければ私が困ります(笑)。しかし、どうして我々人類は、こうも死に対して無自覚なまま生きていられるのでしょうかね?

 ここでまた「では証明とはなんぞや」というちょっとやっかいな問題がでてきますが。


 赤マントさんは侮れませんねー。いやあ吃驚した。では、立花を批判した上で、突っ込んだ論を展開することにしやしょう。

小野不一

 ただ、現実的に言えることは、神や死後世界が存在すると信じている人も居れば、それらは存在しないと信じている人も居る、ということです。


 どちらでも構わないのです。ただ、それが生き方にどのような違いをもたらすか、ということです。まあ、どっちにしても、死ぬのは確実ですから、皆わかるようになるんですがね(笑)。でも、手遅れ。死後の世界があるとすれば、我々は既に何度も死んだ経験をしているはずですから。

山野健一郎

 どちらでも構わないのです。ただ、それが生き方にどのような違いをもたらすか、ということです。まあ、どっちにしても、死ぬのは確実ですから、皆わかるようになるんですがね(笑)。でも、手遅れ。死後の世界があるとすれば、我々は既に何度も死んだ経験をしているはずですから。


 輪廻転生ということですか。(?)


 神、死後世界、輪廻転生、有無を組み合わせてみます。


 1.神有、死後世界有、輪廻転生有
 2.神有、死後世界有、輪廻転生無
 3.神有、死後世界無、輪廻転生有
 4.神有、死後世界無、輪廻転生無
 5.神無、死後世界有、輪廻転生有
 6.神無、死後世界有、輪廻転生無
 7.神無、死後世界無、輪廻転生有
 8.神無、死後世界無、輪廻転生無


 私としましては上記4の考え方です。ただし、神=宇宙の主体的な意志=自然・科学の法則・規則と考えています。

小野不一

 輪廻転生ということですか。(?)


 その通りです。キリスト教は人の一生を1冊の本に喩える。仏法では1ページに喩えるのです。

 神、死後世界、輪廻転生、有無を組み合わせてみます。


 私は一般の宗教が説くところの人格神は信じません。「天にまします我等が父よ――」って言ったって、宇宙飛行士が見たって話も聞かないし……。

 ただし、神=宇宙の主体的な意志=自然・科学の法則・規則と考えています。


 仏法では文字通り「法」と説かれてます。大宇宙と我が生命を貫く法則があると示されております。


 原稿を書くより、こっちの方が面白くなってきた(笑)。

小野不一

 4 神有、死後世界無、輪廻転生無


 私としましては上記4の考え方です。


 死後の世界があるのか、ないのかは誰にもわからないことでしょう。こういう場合は逆から考えるべきだと私は考えます。


 では、「生きる」とはどういうことなのか? これを科学で解明することは可能なのでしょうか? 無から有が生まれるということは科学的にあり得ません。では、地球が誕生してから生命体が出現するまでを、科学で説明できるでしょうか? タンパク質から生命が生まれた背景を明らかにできるでしょうか?


 どうして髪は伸びるのか? 顔の美醜があるのはなぜか? 目が見えるのはどうしてなのか? 感動するのはなぜか? 人が人を好きになる理由は? 等々、こうしたことの方が私にとっては遥かに不思議なことと思われます。

小野不一

 自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか、今のところわたしには何とも言えません。


 権利や自由という観点から申せば、「自殺する権利」や「自殺する自由」はあってしかるべきでしょう。だが、自殺は絶対にいけない。その奥底(おうてい)にあるのは誤った死生観ではないでしょうか。


 また、家族を始めとする周囲の人間に悲しみを与える自由や権利は認められるものではありません。

山野健一郎

 権利、自由、義務、責任権利や自由という観点から申せば、「自殺する権利」や「自殺する自由」はあってしかるべきでしょう。


「自殺する権利」に対する「義務」、「自殺する自由」に対する「責任」、とは何だろう。自殺してしまえばこの世に居ないのだから、権利や自由を行使したことに対する義務も責任も取りようがない。


 権利、自由、義務、責任は、他者というものに(或いは神などに)束縛されることによって成立する概念。全くの一人ぼっちで他者に束縛されないなら、権利、自由、義務、責任もありえない。そして、自殺は「他者の否定」ではないだろうか。本当は他者を殺したい、だけど殺せない、だから本当は死にたくないのに自殺、ということなのではないだろうか。自殺=他殺であると私は思う。

 だが、自殺は絶対にいけない。その奥底(おうてい)にあるのは誤った死生観ではないでしょうか。


 自殺=他殺と考え、人類の永続を願うから、私もそう思う。

小野不一

 確かに。わたしも自分の死についてとことん深く考えたことがないです。


 死というものが生活から姿を消してしまってるのが現実です。3世代が同居するのも珍しくなってしまったし、家で最期を看取ることも少ない。人間の死は病院やアスファルトの道路上にしか見当たらない。


 また、食べ物にしても同様で、動物の死が人間の生を支えていることが直接的には感じられなくなりつつある。


 あたかも文明は死を忌避しているかのようです。

小野不一

 自殺は「他者の否定」ではないだろうか。本当は他者を殺したい、だけど殺せない、だから本当は死にたくないのに自殺、ということなのではないだろうか。自殺=他殺であると私は思う。


 私は自殺≦他殺だと思います。殺しやすいことを踏まえると、男性よりも女性、大人よりも子供、他人よりも自分を殺すケースの法が罪は重いと考えます。

山野健一郎

 死後の世界があるのか、ないのかは誰にもわからないことでしょう。こういう場合は逆から考えるべきだと私は考えます。


 小野さんの仰りたいことは何となくわかります。


 しかし、私は現世に生きている。たとえ仮に死後世界や輪廻転生を経て現在の私「山野健一郎」が存在しているにしても、この現世以外には「山野健一郎」は存在しない。私にとっては現世の「山野健一郎」が私自身の全てであり、この世以外の「山野健一郎」ではない何者かは私ではないのです。そして、さらに仮に死後世界や輪廻転生があったにしても私はこの世で「山野健一郎」として生きることのみで充分であると思っています。

赤マント


 どうも小野さんはウィトゲンシュタインいうところの 「言語ゲーム」に陥ってるように見えます。前に掲示板で「科学的証明とはなんぞや、科学的でない証明とはなんぞや」といったことを書いたのですが、今回も、「生命とはなんぞや」問いましょう。それを生物学的な意味で捉えるなら、潰された蟻は間違い無く生命が消滅しています。生命の指標となるホメオタシスは明らかに崩壊し、あとは細胞の腐敗を待つのみです。ですから小野さんがいう「蟻を動かしめていたもの」は ここには、もうないわけです。つまり消滅したわけです。しかしさらに小野さんは問うわけです。ではここにはもう無い“生命”はほんとうに消滅したのか、と。 このへん実に小野さんらしいところですね。色んな意味で。小野さんはこう言いたいのかもしれません。ここには無いけどどこかにあるはず、と。


 でも、わたしがこのカボチャ頭で思うのは、その議論は単なる言葉の定義の問題に過ぎないのでは、ということです。まず初めに、生命を「蟻を動かしめていたもの」と定義すると潰された蟻にはそれはもう無いわけです。ここにもないし、またそれは、どこにもないのです。なぜなら、どこかにあればそれは 蟻を動かしめなければならないわけです。しかし蟻は動かない。つまりここで定義された生命は消滅したわけです。しかしそれはどこかにある、「蟻を動かしめる」という形ではなく別の形で、というならそれは最初に定義した生命というものとは違ったものとしてあるわけです。 違ったものとしてある、ということは消滅したことにはならない、とすれば確かにそれが消滅したとは言えません。でも、また問題は消滅という言葉の定義に収斂されてしまうのです。


 では、生命というものを魂のような意味で定義してみましょう。「蟻を動かしめたり、またそこから離れて形を変えて他の生命体の源となったり、あるいはその予備軍みたいな状態でどこかにいるもの」と(予備軍っていう表現は変ですけど)。そうすれば押し潰された蟻の生命は消滅しないことになります。「そこから離れて」とか「予備軍みたいな形で」の部分にその“生命”の不滅性みたいなものが暗示されています。不滅性をもって定義されたものが消滅するわけはない
のです。


 生命は不滅か、と問うときに生命の定義の仕方によってすでに結論は出てしまうのではないでしょうか。不滅だ、という人は 生命を不滅のものと定義し、不滅ではない、という人はそれを肉体の死、と定義してるわけです。これ、まさに言語ゲームではないでしょうか。


 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには 未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。

小野不一


 赤マントさん、難し過ぎます(笑)。もっと簡単に言ってやっておくんなせいっ。

小野不一


 ちなみに赤マントさんは脳内現象派?


 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。

小野不一

 どうも小野さんはウィトゲンシュタインいうところの「言語ゲーム」に陥ってるように見えます。


 ウィトゲンシュタインは読んでおりません(赤面)。

 それを生物学的な意味で捉えるなら、潰された蟻は間違い無く生命が消滅しています。


 目に見えないから消滅したとするのでしょうか? 今、眼前にあったものが消滅するというのは科学的にはどうなんでしょうね? 証明できるのでしょうか。エネルギー不滅の法則みたいに私は考えております。

 ですから小野さんがいう「蟻を動かしめていたもの」はここには、もうないわけです。つまり消滅したわけです。


 赤マントさんが仰る「ここ」とは肉体のことですよね。肉体を離脱したという見方をするのは非科学的になりますか?

 生命は不滅か、と問うときに生命の定義の仕方によってすでに結論は出てしまうのではないでしょうか。不滅だ、という人は生命を不滅のものと定義し、不滅ではない、という人はそれを肉体の死、と定義してるわけです。これ、まさに言語ゲームではないでしょうか。


 ここらあたりが難しいですね。結局は本人の思い込みによって立場が分かれてしまうということでしょうか?

 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。


 フーーム、赤マントさんは哲学者ですな。わたしにゃ難し過ぎます(笑)。


 次回の原稿にも書く予定なんですが、魂の重さってえのあ、どうでしょう? 一節によると35gとされてるようですな。死んだ瞬間、体重が減る。質量を伴っている以上は何かが存在すると私は思うのですが……。

小野不一

 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。


 立花が行っているのは、そのメカニズムに迫ろうとしているわけです。私の考えによれば、メカニズムがわかったところで、自分の人生に変化が現われるとは到底、思えません。立花が求めているのは知識に過ぎない。生き方が変化せずしては、価値が無いというのが私の立場です。

赤マント

 赤マントさん、難し過ぎます(笑)。もっと簡単に言ってやっておくんなせいっ。


 いやいや申しわけない、どうも言いたいことが うまく言葉にならなくてシドロモドロになってしまいました(笑)。 えっとつまりわたしが言いたいのは、生命は不滅かと問う前に生命とはなんぞや、ということが明らかでないと意味がないのでは、ということですね。蟻を動かしめていたものを生命とすれば 蟻が動かないとき、それはもう消滅した、と考えるのが妥当だと 思います。そうではない、と思う人は、生命の定義を変えて、魂のような意味で定義するかも知れないけど、そのとき既にそれは不滅性をもって定義されているわけですから、生命は不滅、ということになるのだろう、つまり定義によって結論は見えているのでは? ということが言いたかったのです。以上、簡潔にまとめてみました。全然簡潔じゃないって?

 ちなみに赤マントさんは脳内現象派?


 臨死体験とか死後世界のことは上のこととはまた違う問題だと思うのですが、実を言いますと立花の本を読むまでは完全に脳内現象派でした。NHKスペシャルで立花が出てきて色んな人の臨死体験を紹介したときも、その番組では全く科学的な検証みたいなものはされずに、ただ体験を紹介するだけだったけれど それを見てもまだ完全に脳内現象派でした。でも立花の「臨死体験」を読んでからかなり現実体験側に振れ、今では全く中立というか、ほんとにどっちなのか分らない、という 状態です。


 こう書くと小野さんは、「へ?」と思われるかも知れませんが あの本は、脳内現象派だった人にとってはかなり現実体験説に有力なことが書かれているのです。それゆえ、「立花はオカルト主義」という批判が一斉に湧きおこったわけですね。どうです、意外でしょう(笑)。

 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。


 生命がどこにあるか。う〜〜〜む。 わたしは、結局は生命は物質的なものに還元されると考えています。しかしそれは私達が今想像できる物理化学現象ではないかも知れ ない。例えば物理学でいえばニュートン時代からアインシュタイン時代、量子力学時代の各々の転換点では世界認識を根底からひっくり返させられるほどのインパクトがありますよね。それの何十倍 も強烈な世界認識の変革が行われるほどの発見や研究があったとき に生命の神秘が解きあかされるかもしれないな、と思います。それが死後の世界や霊魂の存在を証明することになるのか、否定することになるのか、あるいは全く違った形の死生観を提示することになるのか、それは全然わからないけど。でも少なくともわたしにはそんな日は訪れないですね。あとよく生きて50年。でも死んでから、生命とはなんだったのかを悟る かも知れない(笑)。


 わたしが生まれる前、わたしにとってはこの世界は存在しなかったわけです。全くの無ですね。死んだときもそういう状態 になるのだと思うのですが、全くの無というのは、どうしても想像できないですね。それは自分がこの頭で考えているのに、そこから、この考えている自分というものを除外するという、かなり無理な思考を強いられるからだと思うのですが、とにかく 無になるのだと思うのです。それも永遠に。そう考えるとほんとうに恐ろしいです、「永遠に」というところが一番恐ろしい(笑)。

赤マント

 目に見えないから消滅したとするのでしょうか? 今、眼前にあったものが消滅するというのは科学的にはどうなんでしょうね? 証明できるのでしょうか。エネルギー不滅の法則みたいに私は考えております。


「蟻を動かしめていたもの」は消滅して、何か他の 蟻を動かしめないものに変わったと考えるのは どうでしょう。エネルギー不滅の法則は面白い着眼点だと思います。 ただエネルギーの場合、総量は保存されるけれども不可逆的に劣化する、というエントロピー増大の法則があります。たとえば車を運転しているとき ブレーキを踏んでスピードを落とします。そのとき、運動エネルギーは熱エネルギーに変わりその総和は等しいのですが、逆にブレーキを踏んで 発生した熱をかき集めて車を動かすことはできないのです。運動エネルギーが熱エネルギーに変わったときに劣化(エントロピー増大)したからです。生命現象でもこのようなことが起こると考えるのはどうでしょう。

 赤マントさんが仰る「ここ」とは肉体のことですよね。肉体を離脱したという見方をするのは非科学的になりますか?


 いえ、全然非科学的とは思いません。ただ、たとえ離脱してそれがどこにいようとも、それが蟻の生命であることを辞めてしまっているのは間違い無いですよね。しかし「蟻を動かしめる」という作業を免除して それがどこかでフラフラ遊んでいてもそれは「生命」と認めてあげよう、と定義すれば、生命は不滅かという 問いの答えも変わってくると思うのです。ただ、蟻から離れてフラフラしてる、と定義するときすでにそれは不滅性を前提されているのではないでしょうか。だとすれば生命は不滅か、という問いは意味を成さないのでは。

 次回の原稿にも書く予定なんですが、魂の重さってえのあ、どうでしょう? 一節によると35gとされてるようですな。死んだ瞬間、体重が減る。質量を伴っている以上は何かが存在すると私は思うのですが……。


 その話は何度か聞いたことがあります。死後、水分が抜けるからだ、という俗反論も耳にします(笑)。 ただ、その35gの話はどうか慎重に、書かれる前に色々詳しく調べたほうがいいと思います。もちろん余計なお世話でしょうけど。

小野不一

 つまり定義によって結論は見えているのでは?


 少し、わかって参りました(笑)。


 仏法に三諦論(さんたいろん)というのがありまして、まあ、基本的な物の見方みたいなもんです。空・仮・中(くうけちゅう)の三諦といいます。空は目に見えない性分・性質。仮は目に見える姿。中はそれらを司っている本体という意味。科学の世界は仮諦(けたい)にとらわれがち。赤マントさんが仰る「動かない蟻」というのも仮諦です。空仮を貫く核のようなものを私は生命と言ってるわけです。


 科学を中心とする西洋の思考法は帰納法です。これに対して仏法というのは演繹法なのです。わかりやすい例えを挙げますと、西洋では進化論的な考えをします。猿から人間がどのように進化したのか。仏法的な見方はこうです。猿が人間の生命を感じたから人間に進化した。まあ、やや突飛と思われるかも知れませんが、科学の世界と相反するわけでもありません。

 それを見てもまだ完全に脳内現象派でした。でも立花の『臨死体験』を読んでからかなり現実体験側に振れ、今では全く中立というか、ほんとにどっちなのか分らない、という状態です。


 こいつあ、ぶったまげた。

 こう書くと小野さんは、へ?と思われるかも知れませんがあの本は、脳内現象派だった人にとってはかなり現実体験説に有力なことが書かれているのです。それゆえ、「立花はオカルト主義」という批判が一斉に湧きおこったわけですね。どうです、意外でしょう(笑)。


 意外どころじゃないッスねー。全然知らなかった。

 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。

 生命がどこにあるか。う〜〜〜む。わたしは、結局は生命は物質的なものに還元されると考えています。


 三諦論を紹介したように、私は物質(仮)と非物質(空)を統合している核のようなものだと考えてます。科学も好い線をついてまして、例えば光ですね。光は波でありながら、粒子でもあることが判明してます。波と粒子は相矛盾するものですが、どちらか一方の姿を必ず現すようになっております。

 わたしが生まれる前、わたしにとってはこの世界は存在しなかったわけです。全くの無ですね。死んだときもそういう状態になるのだと思うのですが、全くの無というのは、どうしても想像できないですね。それは自分がこの頭で考えているのに、そこから、この考えている自分というものを除外するという、 かなり無理な思考を強いられるからだと思うのですが、とにかく無になるのだと思うのです。それも永遠に。そう考えるとほんとうに恐ろしいです、「永遠に」というところが一番恐ろしい(笑)。


 これは次回の原稿で書ければ書く予定なんですが、仏法の唯識論をやると考え方が変わってきます。赤マントさんが仰っているのは「意識」レベルのことでしょう。深層心理にはもっと膨大な生命のエネルギーが潜んでおります。五感の上に意識があり、その上に四つの段階があるのです。七番目が自我、八番目が業、九番目が一番上で、大宇宙と一体の生命流(せいめいりゅう)とでも名づける他ない世界が説かれています。

小野不一

「蟻を動かしめていたもの」は消滅して、何か他の蟻を動かしめないものに変わったと考えるのはどうでしょう。エネルギー不滅の法則は面白い着眼点だと思います。


 これはですね、そもそも赤マントさんと私の発想が逆の位置からスタートしているわけです。私の立場は始めに生命ありき、なんです。その生命が仮に和合した姿が人間や動物・植物になってるというのが私の見方。これを五陰仮和合(ごおんけわごう)といいます。

 ただエネルギーの場合、総量は保存されるけれども不可逆的に劣化する、というエントロピー増大の法則があります。たとえば車を運転しているときブレーキを踏んでスピードを落とします。そのとき、運動エネルギーは熱エネルギーに変わりその総和は等しいのですが、逆にブレーキを踏んで発生した熱をかき集めて車を動かすことはできないのです。運動エネルギーが熱エネルギーに変わったときに劣化(エントロピー増大)したからです。生命現象でもこのようなことが起こると考えるのはどうでしょう。


 これは面白い見方ですね。しかしながら、赤マントさんは何でもよくご存じですね。


 私はもっと拡大解釈をしております(笑)。大宇宙そのものが常に変化してやまない。変化しないものは存在しないといってよいでしょう。その変化せしめるエネルギーこそが宇宙を貫いている。それが波のように現われたのが個々の生命体であると考えます。


 エネルギーが劣化したという場合、五陰(ごおん)を仮に和合させている力が劣化しただけであって、生命のエネルギーそれ自体が劣化するわけではないと私は思います。

 その話は何度か聞いたことがあります。死後、水分が抜けるからだ、という俗> 反論も耳にします(笑)。ただ、その35gの話はどうか慎重に、書かれる前に色々詳しく調べたほうがいいと思います。もちろん余計なお世話でしょうけど。


 そーなんですよー。でね、少し前にネットで検索したところ、35gなんてえのがあったわけです。数十gらしいですね。でも、あれだなー、重さがあったとすると物質になっちまうか。やっぱり書くのやめよ。

小野不一

 これを五陰仮和合(ごおんけわごう)といいます。


 五陰とは、色(しき)・受・想・行・識を指します。


 色とは、物質的側面のこと。受とは、六根(ろっこん/五感+意識)をもって外界の事物を受け入れること。想とは、その受け入れた外界の対象によって、心に種々の想いを生ずること。行とは、その想いによって行動と現すこと。識とは、思慮分別するところの智慧という意味です。陰(おん)とは「おおいかくす」「あつまる」という意味があります。

小野不一


 例えば水。水蒸気になると見えませんが、そのようになる要素は既に水の中にあるわけです。


 また三諦論で申せば、現在の私と3歳の頃の私とでは、肉体的には全く別個のものであり、目玉の芯までが新陳代謝することによって新しい肉体となっております。更に、性格も全く異なっているでしょう。つまり、仮諦・空諦は全く違うのに、そこには一貫して「私」が貫かれているのです。これが中諦(ちゅうたい)です。