古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

指揮者とスパイの顔を持つ男の光と影に満ちた人生/『マエストロ』ジョン・ガードナー

 ・指揮者とスパイの顔を持つ男の光と影に満ちた人生

『女性情報部員ダビナ』イーヴリン・アンソニー

 上下巻合わせて6cm近くある。1285ページに亘る物語。その殆どが一人の老人の独白である。主人公は“不思議”という名の人生そのものである。世界屈指のオーケストラ指揮者、マエストロ・ルイス・パッサウの罪と栄光の物語。聞き手は、あのハービー・クルーガーだ。クルーガー・シリーズ(『裏切りのノストラダムス 』、『ベルリン 二つの貌』、『沈黙の犬たち創元推理文庫)の続編とも読める。


 パッサウの90歳を祝すコンサートが終わるや否や何物かが彼を襲撃する。間一髪で既に引退したハービーが救出。第二次大戦中にナチスKGBとの関係を噂されたパッサウから真相を聞き出すために、ハービーは英国情報部との連絡を絶って、マエストロと2人で逃避行の旅に出る。


 ルイス・パッサウは筋道立てて供述することを頑強に主張し、自らの幼少期から晩年に至るまでを語り出す。一筋縄ではいかないパッサウと、百戦錬磨の元情報部員の戦いが幕を開ける。

「わたしの物語はおそらく君の耳の垢(あか)を一掃することになるだろうよ。ハーブ。まじりっけなしの本当の物語だ。笑いと涙がこもっている。声なき号泣、秋の花の静かなる凋落(ちょうらく)というわけだ」


 その内容たるや――

 ふつうの人間ならその重荷に耐えかねて死んだかもしれないほどだった。だがルイス・パッサウはふつうの人間ではなかった。そして彼の生涯の物語は、ハービーがこれまでに遭遇したどんな人間の体験談とも違うものだった。


 ユダヤ人として生まれ、アメリカに渡り、アル・カポネと知遇を得、女優を娶(めと)り、指揮者としての名声を一身に担った男の人生は、汚辱にまみれたものだった。20世紀の権謀術数が渦巻く世界の真ん中をパッサウは泳いできたのだった。


 ハービーがマーラーを愛好してることもあり、前三部作では折に触れてマーラーの楽曲が鳴り響いていた。ところが、この作品では、ありとあらゆるクラッシク音楽が取り上げられているといっても過言ではない。クラッシク好きの方であれば、2倍は楽しめるだろう。


 パッサウは冷戦の申し子だった。華やかな女性遍歴が物語りに彩りを添える。また、ハービーとイギリス情報部のミズ・パッキーとの恋物語も奏でられる。また三部作でハービーを罠に落とし入れた愛人のウルズラ・ツュンダーも登場し、重層な交響楽が轟くような展開となっている。


 ラストが悲劇となるであろうことはガードナーが伝統を踏襲しているので読めてしまうが、それにしても、これほどの大作を一気に読ませる筆致は相変わらず冴えているといっていいだろう。


 大柄で動きが鈍く、音楽をこよなく愛すハービーの印象は実に鮮やかで、フリーマントルのチャーリー・マフィンを凌駕するキャラクターである。


 オーケストラを名指揮で導くマエストロは、自分の運命の指揮を執ることがかなわなかった。彼の人生は、常に歴史の大波の上に持ち上げられていただけで、太陽の下に素顔をさらけ出すことができないような一生だった。その意味では豪華絢爛でありながら、救いようのない男の物語とも読める。