・『レイチェル・ウォレスを捜せ』ロバート・B・パーカー
・『初秋』ロバート・B・パーカー
・『チャンス』ロバート・B・パーカー]
・『突然の災禍』ロバート・B・パーカー
・『スクール・デイズ』ロバート・B・パーカー
シリーズ物は“サザエさん化”を免れない。これが一読後の結論だ。
『サザエさん』というのは不思議なもので、あれほど多くの番組を見たにもかかわらず、何一つ正確なストーリーを覚えていない。忘れていないのは、テーマ・ソングと提供スポンサーの社名ぐらいなものだ。キャラクターの成功はストーリーを無視させるだけの力があるという見本だろう。
スペンサー・シリーズ第23作。秀逸なキャラクターを生んだ作家には必ずと言っていいほど悲劇がつきまとう。数作品も書けば必ずと言っていいほどファンから罵声を浴びせられるからだ。これはシリーズ物が持つ宿命に他ならない。それにもめげずに20作以上著しているのだから、スペンサーの魅力は侮れない。
あるギャングの娘婿が突然、姿を消し、スペンサーのもとに捜索依頼が来る。娘婿が賭博癖の持ち主であったことから、スペンサーはラス・ヴェガスへ、スーザンとホークを伴って飛んだ。蓋を開けてみるとギャング同士の抗争でした、という何の面白みもないストーリー。
では、面白くなのかと言えば、まあ満更でもないんだな〜、これが。古くからの友人に会いにゆくような感覚、とでもいう代物だ。
タフな肉体、ウィットを効かせた会話、それらを支える男性誇示主義。ま、男性に都合のよい言い方をすれば、右手(めて)に勇気、左手(ゆんで)に知性と言ったところか。
また、いつもながら、ちょっとした一行に「ニヤリ」とさせられる。例えば、ラス・ヴェガスに向かう機中でのこと。相棒のホークにシャンパンを注いたスチュワーデスが、愛想を振りまいて去ってゆく場合などはこうだ。
彼女が歩み去る時、ヒップの動きになにかが加わったように思えた。
似たような経験は私もある。だが、あれは尻がかゆかっただけなのかも知れない。
調査の途中で、ある売春婦と同行する。以下はその際のやりとり――
「食事をするか」
彼女が顔を上げ、私は泣いているのに気付いた。
「あるいは、したくない」
「私に礼をする必要はないわ」彼女が言った、「たんにアンソニイの住んでいるところを教えたからといって」
「判ってる。しかし、きみと一緒にいると楽しい」
「その後、なにか期待するつもり?」
「いや」
ディクシイは前方を見つめていた。泣きながらちょっと鼻をすすった。
「ずいぶんたつわ」彼女が言った、「誰かに食事を連れて行ってもらってから」
「とにかく、試してみよう。気に入ったら、またすればいい」
ホロリとさせられるじゃありませんか。山本周五郎や藤沢周平にも決して劣っていまぜんぞ。
齢(よわい)を重ねても変わらない何かに惹かれるのだろうか。社会という黒い海の中で、多くの人々は妥協を余儀なくされ「こんなものさ」とうそぶいてみせる大人の何と多いことか。既成のルールに則って、ある時は己の精神を無理矢理はめ込み、またある時は、相手に濁った水を飲ませるような真似をする。安定した生活を求める余り、いびつな形をした自分に気づくこともなく、他人に振り回されながら生きてるような男が掃いて捨てるほどいる。
人生何が偉大か――若き日の理想に基づいた信念を生涯にわたり堅持し続けることだ。そんな風に襟を正す要素がこのシリーズにはまだ、ある。