古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

行間に揺らめく怒りの焔/『自動車の社会的費用』宇沢弘文


『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳

 ・行間に揺らめく怒りの焔
 ・新自由主義に異を唱えた男

『交通事故学』石田敏郎
『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司

必読書リスト その二

「生きた学問」は偉大なる感情に裏打ちされている。そのことを思い知った。宇沢は1964年にシカゴ大学経済学部教授に就任した人物。門下生の中にジョセフ・E・スティグリッツがいる(2001年ノーベル経済学賞受賞)。市場原理主義の総本山で、宇沢はシカゴ学派を批判した。気骨の人という形容がふさわしい。

 宇沢の怒りが青い焔(ほのお)となって行間で揺らめいている。本物の怒りは静かなものだ。熱い怒りは長続きしない。読み手はおのずから襟を正さずにはいられなくなる。

 しかし、このように歩行者がたえず自動車に押しのけられながら、注意しながら歩かなければならない、と言うのはまさに異常な現象であって、この点にかんして、日本ほど歩行者の権利が侵害されている国は、文明国といわれる国々にまず見当たらないと言ってよいのである。

【『自動車の社会的費用』宇沢弘文〈うざわ・ひろぶみ〉(岩波新書、1974年)以下同】


 文明が人間を押しのける。我々はテクノロジーの前にひれ伏す。昔であればきれいに舗装されたばかりの道路を歩くと、何となく遠慮がちになったものだ。

 日本における自動車通行の特徴を一言にいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである。(中略)ところが、経済活動にともなって発生する社会的費用を十分に内部化することなく、第三者、特に低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのが、戦後日本経済の高度成長の家庭のひとつの特徴でもあるということができる。そして、自動車は、まさにそのもっとも象徴的な例であるということができる。


 これが本書のテーマである。社会的費用とは公害や環境破壊などにより社会が被る損失を意味する。

低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたち」とは、国が税金でカーユーザーを経済的に支援してきたということであろう。

 ま、普通に道路を歩いていれば誰もが実感していることだ。歩行者優先は掛け声だけで、実際は邪魔だといわんばかりにクラクションを鳴らされる。

 近代市民社会のもっとも特徴的な点は、各市民がさまざまなかたちでの市民的自由を享受する権利をもっているということである。このような基本的な権利は、単に職業・住居の選択の自由、思想・信条の自由という、いわゆる市民的自由だけでなく、健康にして快適な最低限の生活を営むことができるという、いわゆる生活権の思想をも含むものである。このような基本的権利のうち、安全かつ自由に歩くことができるという歩行権は市民社会に不可欠の要因であると考えられている。
 近代市民社会の特徴はさらに、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて、各人の行動の自由が認められるという基本的な原則が守られているということであるが、自動車通行によってまさにこの市民社会における最も基本的な原則を破られている。


 生活権という言葉に目から鱗(うろこ)が落ちる思いがする。そして、この国がいかに法の精神を蔑ろにしてきた実体がよく見えてくる。

 時折、真夜中にオートバイの爆音が聞こえると私は殺意を抱く。前もって来る時間がわかっていれば、バットか木刀を持って待ち受けるところだ。彼らは自分の好き勝手のために、病人や障害者に迷惑をかけている自覚すらないのだろう。っていうか、大体どうしてあんな騒音を撒(ま)き散らす物の販売が認められているのか? バイクショップやメーカーに規制をかけるべきだと思う。それから病人の生活権を守るために、オートバイの免許取得は30歳以上に引き上げるべきだ。

 カーユーザーの自由のために、他の人々の自由が損なわれている。その原因はどこにあるか?

 というのは、近代経済学の理論的支柱を形成しているのは新古典派の経済理論であるが、新古典派の理論的フレームワークのなかでは、一般に社会的費用を発生するような経済現象を斉合的に分析することは、その理論的前提からの制約によってすでに不可能であると言ってもよいからである。


 経済理論に穴が空いていたのだ。それでも人の健康や命に重い価値を置いていれば、賠償請求によって社会は軌道修正してゆくことができるはずだ。つまり、この国は人間を軽んじているのだ。それゆえ国策に乗じた大手企業は絶対に潰れることがない。原発や製薬会社を見れば一目瞭然だ。特に製薬会社は名前を変えて生き残っている。石井部隊の末裔(まつえい)は断じて死なない。

 自動車の普及のプロセスをたどってみると、そのもっとも決定的な要因のひとつとして、自動車通行にともなう社会的費用を必らずしも内部が負担しないで自動車の通行が許されてきたということがあげられる。すなわち自動車通行によって、さまざまな社会的資源を使ったり、第三者に迷惑を及ぼしたりしていながら、その所有者が十分にその費用の負担をしなくてもよかったということである。


 道路・信号・標識・横断歩道と排気ガス・騒音など。本来であれば、自動車税ガソリン税をもっと高くすべきなのだろう。結果的に自動車所有者が得をする仕組みになっていたわけだ。持てる者と持たざる者の間にアスファルトの道路が存在する。

 自動車の普及を支えてきたのは、自動車の利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面とが存在する。


 利便性と所有欲が人間を犠牲にしてきたという指摘だ。そして車を所有できない人々は沈黙を強いられてきた。

 要するに、ホフマン方式によって交通事故にともなう死亡・負傷の経済的損失額を算出することは、人間を労働提供して報酬を得る生産要素とみなして、交通事故によってどれだけその資本としての価値が減少したかを算定することによって、交通事故の社会的費用をはかろうとするものである。
 このホフマン方式によるならば、もし仮りに、所得を得る能力を現在ももたず、また将来もまったくもたないであろうと推定される人が交通事故にあって死亡しても、その被害額はゼロと評価されることになる。また、こう所得者はその死亡の評価額が高く、低所得者は低くなることも当然である。したがって、老人、身体障害者などが交通事故にあって死亡・負傷したときにはその被害額は小さくなるのである。

 このような急速方法が得られるのは、人間をひとつの生産要素とみなすからである。労働サーヴィスを提供して、生産活動をおこない、市場で評価された賃金報酬を受取る、という純粋に経済的な側面にのみに焦点を当てようとする考え方が、その背後には存在する。この考え方はじつは、人間のもつさまざまな社会的・文化的側面を捨象して、純粋に経済的な側面に考察を限定し、希少資源の効率的配分をひたすらに求めてきた新古典派の経済理論の基本的な性格を反映するものである。


 蒙(もう)が啓(ひら)かれる。真の学問は光を発して周囲の世界を照らす。GDP国内総生産)という発想も同様であろう。国家が最も必要とするのは労働者と兵隊である。生産要素とは納税者の異名でもある。すなわち国家は国民を搾取対象と見なすのだ。

 官僚が経済論を基準に法律を作成し、政治家が業界の意向を汲んで修正を加え、法律ができあがる。そこに人権への配慮はない。こうやって法の精神は魂を抜かれ、試験のために記憶するだけの条文と化すのだろう。

 法律が本当に機能しているのであれば、国家賠償訴訟などで世の中がよくなっているはずだ。しかしそんな気配は微塵もない。そもそも法律や憲法なんぞは宗教の教義みたいなもので、信じる人々の間で有効に働く程度の代物であろう。いつの時代にもアウトローは存在する。

 本当なら、大学が最後の砦(とりで)として世の中を正してゆくべきだと思うが、既に産学協同で大学は企業の下部組織となりつつある。「一緒にポーカーをやろうぜ」ってわけだよ。大学は優良企業へ就職するための通過点にすぎない。

 資本主義経済は人の命にまで値段をつけて差別をするのだ。経済学が欺瞞(ぎまん)の笛を鳴らし、国家はそれに合わせて踊るという寸法だ。世界経済を牽引(けんいん)するアメリカも中国も恐るべき格差社会となっている。極端な集中が崩壊の引き金となる。先行投資として社会保障を手厚くしておかなければ大変な事態に陥る。

 このままグローバリゼーションの波に乗っていれば、日本の優良企業や一等地はアメリカと中国に買われてしまうことだろう。

「パックス・アメリカーナの惨めな走狗となって」宇沢弘文

台湾の教科書に載る日本人・八田與一/『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三


『医者、用水路を拓く アフガンの大地から世界の虚構に挑む』中村哲
『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
特集『KANO 1931海の向こうの甲子園』馬志翔(マー・ジーシアン)監督

 ・台湾の教科書に載る日本人・八田與一

『街道をゆく 40 台湾紀行』司馬遼太郎

 以来、八田與一〈はった・よいち〉の名前は、嘉南60万の農民の心に刻み込まれ、永遠に消えることはなかった。
 不毛の大地として、見捨てられていた広大な嘉南平原の隅々にまで灌漑用水が行き渡るのを見届けて、八田與一は思い出多い烏山頭の地を後にし、家族と共に台北へ去っていった。八田技師と共に工事に携わっていた人々は、作業服姿で大地に腰を下ろした八田技師の銅像を作り、起工地点に据えてその功績を称えた。
 素朴な嘉南の農民は、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」という畏敬の念に満ちた言葉を贈り、終生八田與一への恩を忘れないようにした。
 嘉南大圳の完成は、世界の土木界に驚嘆と賞賛の声を上げさせた。
 烏山頭(うさんとう)ダムは東洋では随一の湿式土壌堤であり、その規模において世界に例を見ない。このため、アメリカ合衆国の土木学会は、特に「八田ダム」と命名し学会誌上で世界に紹介した。八田與一の技術の勝利であり、日本の灌漑土木工事の優秀さを、世界に証明するのに十分な土木工事の一大金字塔であった。
 嘉南平原が絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたような緑の大地に甦り、台湾最大の穀倉地帯と呼ばれるようになった頃、八田與一は勅任官技師になり「台湾に八田あり」と言われるようになる。やがて、戦雲が世界を覆い包んだ。昭和16年、台湾からも零戦が飛び立ち嘉南平原を軍歌が音をたてて通り過ぎて行った。昭和17年5月5日、フィリピンの綿作灌漑調査を、軍より命ぜられた八田與一広島県宇品港で大洋丸に乗船し、日本を後にした。
 5月8日、五島列島の南を航行中、大洋丸が撃沈された。アメリカ海軍の潜水艦による魚雷攻撃であった。八田與一は、56歳の生涯を東シナ海で終えた。それから3年後、太平洋戦争は敗戦で幕を閉じた。

【『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三〈ふるかわ・かつみ〉(改訂版、2009年/青葉図書、1989年『台湾を愛した日本人 嘉南大圳の父八田与一の生涯』改題)以下同】


 古川勝三は教員である。文部省海外派遣教師として台湾の日本人学校に3年間勤務。その時初めて八田與一を知った。日本では全く無名の八田を世に知らしめたのが本書である。司馬遼太郎が称賛した。

 八田の仕事が偉大な壮挙であったのは言うまでもないことだが、台湾の人々の心をつかんだのは八田の振る舞いであった。大東亜戦争においても日本の軍人がアジアの人々の心をつかんだのは武士道もさることながら、やはり人種差別のない振る舞いが大きかったことだろう。


 古川は作家でないせいか、冒頭部分で手の内を全てさらす。八田の死は更なる悲劇を招いた。

 八田與一が青春を捧げた台湾は中華民国に返還され、日本人はことごとく台湾を去らねばならなくなった。
 愛する夫を戦争で奪われた外代樹(とよき)は今また夫と共に過ごした台湾を去らねばならぬ苦しみに打ちひしがれ、虚脱したからだを夫の終生の事業であった烏山頭ダムの放水口に踊らせて、45歳の生涯を閉じた。
 日本人が去り、日本人の銅像や墓が次々と壊されていく中で、嘉南の人々は御影石を買い求め、日本式の墓石を造り八田技師の銅像のすぐ後に建てた。昭和21年12月15日のことである。以来、嘉南の人々は八田與一の命日になると、烏山頭ダムから一斉に放水して、その功績を偲び嘉南の大地と農民を愛し続けた若き技師の「追悼式」を、毎年欠かすことなく行ってきた。

 


セデック・バレ』そのものである。しかも烏山頭ダムが完成した1930年に霧社事件が起こっているのだ。古い時代と新しい時代の波がぶつかり合う時、過去の歴史は恐るべき様相で飛沫を散らす。外代樹夫人が入水(じゅすい)した9月1日は烏山頭ダムの着工記念日であった。

八田技師の妻、外代樹夫人の銅像除幕式/台湾・台南

「台湾を愛した日本人」は台湾で発行されていた日本人会報に連載。大きな反響があり後に書籍化される(ダムインタビュー 45 古川勝三さんに聞く「今こそ、公に尽くす人間が尊敬される国づくり=教育が求められている」)。八田の生きざまが古川の胸を響かせ、その余韻が多くの読者にまで伝わる。心を打つのはやはり心なのだ。



台湾人に神様レベルで感謝されてる日本人がいた

陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男/『たった一人の30年戦争』小野田寛郎


『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎

 ・陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男
 ・人間が怖かった
 ・残置諜者の任務を全うした男

『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月
・『奇蹟の今上天皇小室直樹
『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市
『洞窟オジさん』加村一馬

 1972年(昭和47年)1月24日、横井庄一グアム島で発見された(画像)。帰国した横井は「恥ずかしながら帰って参りました」と語った。


 それから2年後の1974年3月10日、今度はフィリピンのルバング島小野田寛郎がフィリピン軍に投降する。戦後29年目のことであった。

 実はこの二人には大きな相違があった。横井は川でエビを採っていたところを地元の猟師に発見され、住んでいた洞窟から救出された。これに対して小野田は戦争が続いているものと確信し、所期の任務を遂行していたのだ。戦後、幾度となく捜索が行われたにもかかわらず、小野田は米軍による偽装行為であると思い込んでいた。接触に成功した鈴木青年のことも小野田は全く信用していなかった。最終的に谷口元少佐が現地を訪れ、新たな命令を口達(こうたつ)し、武装解除、投降に至るのである。

 小野田寛郎は足掛け30年もの長きにわたり、たった独りで戦争を続けていたのだ。

 初めは4人で行動していた。終戦から4年後に一人が逃亡した。9年後には一人が射殺された(島田庄一)。そして盟友の小塚金七も1972年に射殺された。それでも小野田はルバング島の動向を掌握し、日本軍がやって来ることをひたすら信じた。何が彼をしてそこまで駆り立てていたのだろうか。

 私はこの“戦後30年”、必死で、人の2倍のスピードで人生を生きてきた。
 帰還の記者会見で「30年のジャングル生活で、人生を損したと思うか」と聞かれ、「若い、意気盛んな時期に、全身を打ち込んでやれたことは幸福だったと思う」と答えた。

【『たった一人の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(東京新聞出版局、1995年)以下同】


 二十歳(はたち)の小野田は中国語に堪能であったことから、陸軍中野学校二俣分校で訓練を受けることとなる。

 当時、陸軍には校名を見ても内容がわからない学校が二つあった。「中野学校」と「習志野学校」である。この二校だけは、陸士や歩兵学校、通信学校などと違って、参謀総長の直轄であった。
 わかりやすくいえば、中野学校はスパイの養成機関、習志野学校は毒ガス、細菌戦の専門家教育である。「こりゃ、えらいところへ回された」というのが、私の正直な気持ちだった。
 中野学校の教育方針は「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」というものだ。


 通常、軍人であれば捕虜となった時点で「負け」を意味する。戦陣訓には「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と謳われていた。しかし諜報活動を行う中野出身者は違った。捕虜になっても尚、敵軍の情報を収集し、チャンスがあれば偽情報を流すことも可能であった。スパイにとって最大の仕事は「報告すること」である。死ぬことは絶対に許されなかった。

 校風は当時では考えられないほど自由奔放で、国体を批判しようが、八紘一宇(はっこういちう)を疑おうがおとがめなし。むしろ「天皇のために死なず」という気風すらあった。
 自分たちが命を捧げる対象は、天皇でもなく、政府、軍部でもなく、日本民族である。民族を愛し、民族の捨て石となって喜んで死ぬことができるか──を問うた。
 こんな精神教育の上に立ち、命も名もいらぬ人間として諜報技術を叩き込まれた。
 軍人の規範とされた戦陣訓には「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々(いよいよ)奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」とある。
 しかし中野学校では、「死ぬなら捕虜になれ」と教えた。捕虜になって敵に偽情報をつかませるのだ。そのため“擬装投降”という戦術まであった。
 だが、功績を認めてくれるのは組織上層部だけで、世間には汚名を着せられ、人知れず朽ち果てていく。これが秘密戦士の宿命であった。
 では、秘密戦にたずさわる者は、いったい何をよりどころにすればいいのか。中野学校はこれをひと言で表現した。
「秘密戦とは誠なり」である。


 中野教育は一種のエリート教育であったと考えるべきだろう。一般の軍隊よりも一段高い視点から戦争を捉えていることからそれが窺える。ただし、功に生きることは許されない。飽くまでも黒子であり忍びという存在に徹することが求められる。

 中野の訓練は、「一を見て十を知る」という観察眼に重きが置かれた──

 たまに教官と浜松の街に外出するのも、息抜きでなく“候察”(こうさつ)の実地教育である。
 ある工場の前を通った。煙突から黒煙や黄色い煙があがっていた。
「工場の使用燃料は何か?」「何を生産し、その数量は?」「従業員数は何人か?」
 教官から矢継ぎ早に質問がとぶ。私たちはしどろもどろだった。
 候察ではメモは一切禁止されていた。敵に捕まったとき、証拠を残さないためだ。私はルバング島の30年、この習性で一切メモはとらず、日にちから行動まですべてを頭の中に記録してきた。


 そして小野田に命令が下された──

 私への口頭命令は次のようなものであった。
「小野田見習士官は、ルバン(グ)島へ赴き同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」
 この命令が、以後30年、私の運命を支配することになる。


 更に付け加えられた──

 小柄で、温和な風貌をした横山師団長は、私にじっと目を注いで静かな口調で命令した。
「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか。重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」


 この言葉が小野田を30年間支配したのだ。そして百数十回にわたる戦闘を展開した。

 1972年の捜索には小野田の家族も参加し、拡声器で呼び掛けている。小野田は至近距離から確認した。にもかかわらず小野田は姿を現さなかった。なぜか? それは諜報戦に身を投じた者の宿命であった。小野田はあらゆる情報を「疑う」習性に取りつかれていたのだ。

 小野田寛郎こそは、陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男だった。何という運命のいたずらか。

 彼の30年間を「単なる勘違い」と嘲笑できる人物は一人も存在しないことだろう。彼が不幸であったと言う人すらいないことだろう。同じ30年間を漫然と過ごしてきた日本人の方が圧倒的に多かったはずだ。

 私は軍国主義ナショナリズムに対して常々嫌悪感を抱いているが、小野田の中に結晶した戦前の何かに魅了されてやまない。

 投降後の行動もことごとく軍人の様式に貫かれている。小野田は殺されることを覚悟で軍刀をフィリピン軍司令官に差し出す。司令官は一旦受け取った後、その場で小野田に軍刀を返した。フィリピンのマルコス大統領(当時)は、小野田の肩を抱き「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として4年間戦ったが、30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦(ゆる)します」と語った。小野田は現地住民を殺傷していたため、死刑になってもおかしくはなかったのだ。

 ルール、教育、命令、約束……。これらは日常生活にもあるものだ。そこには往々にして利害が絡んでいるものである。内側から見れば正義だが、外側から見ればエゴイズムに映ることも決して珍しくはない。

 小野田はルバング島の住民を震え上がらせた。帰国後、住民達からのメッセージが伝えられた──

 私が帰還後、厚生省の招待で西ミンドロ州知事夫妻とマニラ地区空軍司令官夫妻が東京にやってきたことがある。私は陸軍中野学校の同期生たちと、彼らを東京の街に案内した。
 銀座のクラブで飲んでいるとき、突然、州知事夫人が改まった顔で「ミスター・オノダに島の女性と子供たちからメッセージがあります」といった。場が一瞬、緊張した。
「島の男たちは30年間、大変怖い思いをしました。不幸な事件も起きました。しかし、オノダは決して女性と子供には危害を加えなかった。彼女たちが子供たちと安心して暮らすことができたのは、大変幸せなことでした」
 私は別にジュネーブ国際条約に定められた事項を守り通そうという意識があったわけではない。性欲は私欲であって、国のために戦うのに必要のないものだ。戦闘力も敵意もない女性や子供は、戦いには無関係だっただけである。


 小野田という人間の真髄がここにある。本書を読みながら、とめどなく涙がこぼれる。だが、私の心を打つものの正体がいまだにつかめないでいる。



小野田寛郎さんという人の、本当の素晴らしいところ
教科書問題が謝罪外交の原因/『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘
国益を貫き独自の情報機関を作ったドイツ政府/『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘
靖國神社/『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
エキスパート・エラー/『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
小善人になるな/『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通

沖仲仕の膂力と冷徹な眼差し/『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー


『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー

 ・沖仲仕の膂力と冷徹な眼差し
 ・自己犠牲

 情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴をもっている。
 情熱の根源には、たいてい、汚れた、不具の、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外からの刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。

【『魂の錬金術 エリック・ホッファーアフォリズム集エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2003年)以下同】


 荷を運ぶ沖仲仕(港湾労働者)の膂力(りょりょく)と思想家の冷徹な眼差しが言葉の上で交錯する。港のコンクリートを踏みしめる足の力から生まれた言葉だ。エリック・ホッファーは言葉を弄(もてあそ)ぶ軽薄さとは無縁だ。

 情熱は騒がしい。そして熱に浮かされている。ファンや信者の心理を貫くのは投影であろう。情熱には永続性がない。エントロピーは常に増大する。つまり熱は必ず冷めるのだ。特に知情意のバランスを欠いた情熱は危うい。

 われわれが何かを情熱的に追求するということは、必ずしもそれを本当に欲していることや、それに対する特別の適性があることを意味しない。多くの場合、われわれが最も情熱的に追求するのは、本当に欲しているが手に入れられないものの代用品にすぎない。だから、待ちに待った熱望の実現は、多くの場合、われわれにつきまとう不安を解消しえないと予言してもさしつかえない。
 いかなる情熱的な追求においても、重要なのは追求の対象ではなく、追求という行為それ自体なのである。


 達成よりも行為を重んじるのは現在性に生きることを意味する。功成り名を遂げることよりも今の生き方が問われる。将来の夢に向かって進む者にとって現在は厭(いと)わしい時間となる。追求よりも探究の方が相応しい言葉だろう。

 われわれは、しなければならないことをしないとき、最も忙しい。真に欲しているものを手に入れられないとき、最も貪欲である。到達できないとき、最も急ぐ。取り返しがつかない悪事をしたとき、最も独善的である。
 明らかに、過剰さと獲得不可能性の間には関連がある。


 空白の欺瞞。

 あれかこれがありさえすれば、幸せになれるだろうと信じることによって、われわれは、不幸の原因が不完全で汚れた自己にあることを悟らずに済むようになる。だから、過度の欲望は、自分が無価値であるという意識を抑えるための一手段なのである。


 欲望は満たされることがない。諸行は無常であり変化の連続だ。一寸先は闇である。我々が思うところの幸福は我が身を飾るアクセサリーに過ぎない。

 あらゆる激しい欲望は、基本的に別の人間になりたいという欲望であろう。おそらく、ここから名声欲の緊急性が生じている。それは、現実の自分とは似ても似つかぬ者になりたいという欲望である。


 名声という名のコスプレ。変身願望を抱く自分からは逃げられない。

 山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰はいらない。


 これぞ、アフォリズム

「もっと!」というスローガンは、不満の理論家によって発明された最も効果的な革命のスローガンである。アメリカ人は、すでに持っているものでは満足できない永遠の革命家である。彼らは変化を誇りとし、まだ所有していないものを信じ、その獲得のためには、いつでも自分の命を投げ出す用意ができている。


 大衆消費社会の洗礼だ。

 プライドを与えてやれ。そうすれば、人びとはパンと水だけで生き、自分たちの搾取者をたたえ、彼らのために死をも厭わないだろう。自己放棄とは一種の物々交換である。われわれは、人間の尊厳の感覚、判断力、道徳的・審美的感覚を、プライドと引き換えに放棄する。自由であることにプライドを感じれば、われわれは自由のために命を投げ出すだろう。指導者との一体化にプライドを見出だせば、ナポレオンやヒトラースターリンのような指導者に平身低頭し、彼のために死ぬ覚悟を決めるだろう。もし苦しみに栄誉があるならば、われわれは、隠された財宝を探すように殉教への道を探求するだろう。


 これが情熱の正体なのだろう。衝動という反応だ。脳が何らかの物語に支配されれば、人は合理性をあっさりと手放す。我々は退屈な日常よりもファナティックを好む。生きがいや理想すら誰かにプログラムされた可能性を考えるべきだろう。中国や韓国の反日感情が、日本人の中で眠っていたナショナリズムを強く意識させる。ひょっとすると日本の若者は既に戦う意志を固めているかもしれない。このようにして感情はコントロールされる。踊らされてはいけない。自分の歩幅をしっかりと確認することだ。



一体化への願望/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ

マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

「孟(もう)さま、趙王(ちょうおう)は去年、中山(ちゅうざん)を望見(ぼうけん)したそうです」
 と、丹冬(たんとう)は容易ならぬことをいった。
 望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。

【『楽毅宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】


 心の蒙(くら)い部分が啓(ひら)いた。希望や願望の危うさがここにあるのだ。一身の上であれ、権力の上であれ志向を支えるのは欲望だ。欲と望の字は横に位置するのだろう。

 40代になってからマントラの意味を思索してきた。真言とも呪文とも訳されるが、祈りにこめられた望みを思えば呪文に重みが増す。

 古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静岩波新書、1970年)】


 何と文字そのものが呪能をシンボライズしたというのだ。「呪」の旁(つくり)である兄は人を象(かたど)り、口偏は祈りを示す。呪の訓読みは「まじない」である。「まじないは、人間がある特定の願望を実現するために直接的または間接的に自然に働きかけることをいうが、その願望を実現するために事物に内在する神秘的な力、霊力を利用するのである」(世界大百科事典 第2版)。

 後の世に「祝」という字が作られるが意味は同じである。すなわち言葉で霊力を縛りつけるのだ。武田信玄が掲げた軍旗「風林火山」を思えばわかりやすい。何にも増して呪能が発揮されるのは自分の名前であろう。それは単なる記号ではなくして自我の根幹をなすものだ。

 漢字そのものにマントラ性が潜む。更に思考を推し進めれば漢字だけではないことに気づく。シンボルというシンボルには何らかの呪能がこめられている。

 芸術家が絵画や工芸品の中に潜ませたシンボルを探しだし、それらのつながりを解読することができたとき、その作品の背後に隠されている意味と寓意の豊かな世界が眼前に開けてくる。なぜなら、シンボリズムの普遍的な力に導かれ、芸術家も鑑賞者も、創造媒体の物質的制約や文化的境界線を踏み越え、深く人間精神の根源に辿り着くことができるからである。

【『シンボルの謎を解く』クレア・ギブソン:乙須敏紀〈おとす・としのり〉訳(産調出版、2011年)】


 すべてのエネルギーを1ヶ所に集めたところに西洋の神は生まれたのだろう。

 呪を儀礼と考えよう。

 あらゆる未開社会には儀礼があるという単純な事実から出発しよう。もっと正確に言うならば、すべての人間社会、少なくとも、科学的認識の発達と、抽象的哲学の成果とによって、伝統的慣習の効果が疑われるに至っていない社会には、儀礼が存在すると言えるだろう。したがって、儀礼儀礼である限りにおいて、それはひとつの機能を持つと考えうことができる。

【『儀礼 タブー・呪術・聖なるもの』J・カズヌーヴ:宇波彰〈うなみ・あきら〉訳(三一書房、1973年)】


 儀礼については以下も参照せよ。

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
情動的シナリオ/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

 古代中国において儀礼は占いと結びつく。

占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光

 物語とは思考を言葉で縛る行為に他ならない。望と呪、呪とシンボル、呪と儀礼儀礼と占い、そして占いと物語がつながった。欲望が作動する物語のメカニズムを解いたのがブッダであった。

   
  


理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

大いなる人物の大いなる物語/『孟嘗君』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『湖底の城』宮城谷昌光

 ・大いなる人物の大いなる物語
 ・律令に信賞必罰の魂を吹き込んだ公孫鞅
 ・孫子の兵法
 ・田文の光彩に満ちた春秋
 ・枢軸時代の息吹き

『長城のかげ』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 宮城谷昌光は晴朗な文章で時代と人を描く。『史記』に書かれた孟嘗君(もうしょうくん)は点景のようなものであろう。そこに息を吹き込み、血を通わせ、魂を打ち込む。想像力を支えているのは漢字だ。漢字の成り立ちや作りから歴史を読み解く。それはまさに「同じ時代を生きる」作業であった。人間の英知と感情は数千年を隔てた人物の理解を可能にする。

 宮城谷作品は5~6冊ほど読んでいるが長篇は初めてのこと。全5巻を5日間で読み終えた。鮮やかな輪郭を伴った人間が凄まじい勢いで読者に迫ってくる。信じ難いほど心が揺さぶられる。生きることの重みがまるで違う。

 孟嘗君(もうしょうくん)は諡(おくりな)で本名を田文(でんぶん)という。父・田嬰(でんえい)の妾腹(しょうふく)で、忌(い)まわしい日に誕生したため殺害を命じられた。当時、5月5日に生まれた子は父を殺すと信じられていた。オイディプス阿闍世王あじゃせおう)を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 邸(やしき)内の清掃を生業(なりわい)とする僕延(ぼくえん)の手で助けられた田文は、その後亡き者とされる。全5巻のうち4巻までは育ての父・風洪(ふうこう/後に白圭と改名)と公孫鞅(こうそんおう)・孫ピン孫武と同じく孫子と呼ばれる人物)が主役を務める。田文(でんぶん)を巡る時代と人々の潮流を描くところに著者の真意があるのだろう。

 斉(せい)の国は塩をにぎった。
 のちに天下を制するものは、塩と鉄である、といわれるようになる。その片方を斉が多量に産することによって、この国は富んだ。

【『孟嘗君宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】


 時代考証の重要な要素は人口と経済だと思われる。人々の衣食住を支えるのが経済であり、経済によって政治も安定する。人心とは空腹か否かであろう。人類にとって長い間、塩は貴重品であった。インドでガンディーが行った塩の行進は、イギリスの専売に抗議を示したものだ。これがインド独立につながった。日本においても1985年まで専売制であった。生存に不可欠なものは必ず権力者が管理する。

 中国で紙が発明されるのは紀元前2世紀で、前漢王朝の時代である。紙といえば、後漢王朝の蔡倫(さいりん)という官人が発明したことになっているが、実際はそれよりはるかまえに発明されていた。それはともかく、戦国時代には紙がないので、ふつうに文字を書くとしたら、布のうえか、木片や竹片のうえということになる。木片のほうが竹片より不乱しにくいので、木片が重宝がられたにちがいなく、
「■(片+賣/トク)」
 とよばれる木片は、書き物用の木の札のことで、それはいまでいう手帳とか手紙のことである。


 これまた重要な時代考証だと思われるので記しておく。現代において書籍を「冊」と数え、文章を「篇」と称し、本を「紐解く」というのは、竹簡木簡に由来している。

 歴史とは「記録されたもの」の異名である。記録を欠いて歴史は成立しない。歴史とは概念なのだ。中国には古くから皇帝(王)を中心とする「天下」の思想があった。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 宮城谷作品の魅力は挙措(きょそ)を通した人物描写にある。

 風洪(ふうこう)が部屋にはいると、夭(わか)い女がいて、揖(ゆう)をした。揖というのは、両手を胸のまえで組み、上下させる礼のしかたである。その礼容が明るい。性格が明朗なのかもしれない。

 

 風洪は冷(ひ)えた目で公孫鞅(こうそんおう)を凝視(ぎょうし)しはじめた。この男はその場に応じていろいろな顔をつくることができる。が、いろいろな話をつくるのであれば、信用できない。

 

 人を生かすことのできぬ者は、人を殺すこともできないのである。恵王(けいおう)の本性にあるなまぬるさを、公孫鞅(こうそんおう)はおそろしいほど深々と洞察したのである。

 

 風洪は心のなかで皮肉な笑いを浮かべた。人のこころのなかのことは、顔なんぞみなくてもわかる。声をきけばよい。辰斗の声には誠意というものがいささかもこめられていない。


 情報のスピードが遅い時代だからこそ情報の深度が増すのだろう。雑音の多い現代とは異なるゆえに、人間の姿も真っ直ぐに見えたのだろう。我々の社会は付加価値だらけで本質が見えにくくなっている。

 風洪(ふうこう)はまだ侠客(きょうかく)のような立場であったが後に大商人となる。一方、公孫鞅(こうそんおう)は仕官を志していた。当時は春秋戦国時代諸子百家(しょしひゃっか)と呼ばれるほど思想の花が絢爛と咲いた。儒家(じゅか)・法家(ほうか)を中心とする学者は仕官を目指すわけだが、これは軍師的な色合いの強い政治家であった。君主を補佐する官位を宰相(さいしょう)といい、無名の人物が抜擢されることも珍しくはなかった。科挙による人選はもっと後代のことである。

「赤子はつよいな。おのれの欲望のためにないている」
 と、ふくみのあることをいった。
「すさまじいことを申される」
 血のめぐりのよい公孫鞅(こうそんおう)は風洪(ふうこう)の諷意(ふうい)をすぐに汲んだ。それにしても、
 ――欲望のためになけ。
 とは、うちひしがれた公孫鞅を立ち直らせるに、なんとふさわしいことばであったことか。公孫鞅は大望(たいぼう)があるといった。が、涙とともに流れ去るような大望では、男の本懐とはいえまい。


 風洪(ふうこう)は公孫鞅(こうそんおう)を人物と認めた。その後、妹を嫁がせている。

 が、どの国も、
「軽治(けいじ)」
 であるがゆえに、農民の苦労にむくいていない。軽治というのは、軽い政治のことであるらしい。耳なれぬことばであったので風洪が問うと、たとえば、と公孫鞅(こうそんおう)はいい、
 ――農貧しくして、商富む。
 それが軽治であるとこたえた。農民が貧困で、商人が富裕である、そういう状態を国政がゆるしているとき、それを軽治というようだ。


 これが2000年前の見識というのだから凄い。社会の仕組みは大きく変わったように見えながら、基底部は同じなのだろう。国民の食を支える農民を粗末にすれば国はいずれ滅びる。商人は品物を右から左に流すだけの仕事だ。ものを作っているわけではない。

 今はどうか。もっと酷い。他人から預かった金で儲ける銀行や証券会社や、電波利権にあぐらをかくメディアがのさばっているのだから。

 現代の政治家がいう国益の何と軽いことか。彼らに「国家を治める」度量があるとは到底思えない。政党の多数決要員に甘んじた姿が目立つ。

 最後に当時の処罰を紹介する。これは孫ピンにも処されているゆえ、どうしても書いておく必要がある。

 犯罪者にたいしては肉体を損傷するというのが、処刑の方法である。犯罪者であるというしるしを、だれの目にもあきらかにするのである。たとえば、
 黥(げい)
 とよばれるものは、いれずみであり、これをひたいにほどこす。
 ■(月+リ/げつ)
 ■(月+濱のつくり/ひん)
 は、あしきりの刑である。足をうしなった者は門番になるというのが、古代の事例にある。ところが衣服を着ると肉体の欠損をかくし、受刑者であることを世間の目からくらますことができるものがある。それは、
 宮刑(きゅうけい)
 腐刑(ふけい)
 とよばれるもので、すなわち男性の生殖器をきりとる刑で、重罪を犯した者に適用する。
 ところがこの受刑者にひとつの利点がもたらされた。どういうことかといえば、かれらは男性であることを喪失したのであるから、性欲にともなうなまぐさみがなくなり、それだけに女性に近づけても害のない存在であるとみなされ、女ばかりの住まいである後宮の警備の任をあたえられるようになった。これを寺人(じじん)という。さらに殿上にあって庶務をおこなう者もあらわれた。これが宦官(かんがん)である。


 司馬遷(しばせん)も宦官であった。そして孫ピンのピンは「■(月+濱のつくり/ひん)」である。つまり「足を切られた孫(そん)さん」という通称であったのだろう。生き生きと描かれる孫ピンは、吉川『三国志』の諸葛孔明を軽々と凌駕している。一読しただけでは理解しにくい『孫子』の兵法も手に取るようにわかる。

 田文が生きたのはちょうど孔子ブッダの間の時代であった。枢軸時代は人類の思考や物語を決定づけた時代である。大いなる人物の歩みがそのまま大いなる物語となった。その生きざまに、ただ頭(こうべ)を垂れるのみ。

 取り敢えず1巻の書評はここまで。

    

「武」の意義/『中国古典名言事典』諸橋轍次

「文字禍」/『中島敦』中島敦


『廃市・飛ぶ男』福永武彦
『物語の哲学』野家啓一

 ・「文字禍」

必読書 その一

 ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ麻痺セシムルニ至ッテ、スナワチ極マル。」文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった。(中略)ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。埃及(※エジプト)人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做(みな)しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。(「文字禍」)

【『中島敦中島敦(ちくま日本文学、2008年)以下同】


 新潮(218ページ)・角川(256ページ)・岩波(421ページ)からも文庫版が出ているが筑摩(480ページ)以外の選択肢はない。なぜなら「文字禍」が収められているからだ。

 中島は旧制一高(現在の東大)に入ってから小説を書き始めた。喘息の発作に苦しみながらもペンを執(と)った情熱を思わずにはいられない。その後高校の教員をしながら書き続けた。活字となったのは、『山月記』、『文字禍』、『光と風と夢』のわずか3作品で、亡くなる直前に2冊の本が刊行された。喘息のため33歳で逝去。名を遂げることはなかったが作品は今も尚生き続け、多くの人々が親しむ。本物の芸術家は時代に先駆けるゆえ正当な評価は遅れてやってくる。

「文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった」――1942年(昭和17年)の『文學界』5月号に掲載されたということは多分31歳で書いた作品だと思われる。文明の発達と肉体の衰えを捉えて見事な一文である。漢籍の素養が日本語の抽象度を高め、矢の如く一直線に迫ってくる。しかもメタフィクション的な手法を使いながら、学者が文字を否定するというジレンマがユーモラスな興趣を添える。

 至為(しい)は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし(「名人伝」)


 こうなると老荘思想や仏教の空に近い。中島敦にとって小説とは書くことで完結した行為であったのだろう。名誉やカネ目当てでは戦争の真っ最中に小説を書くことなど出来ない。

 そんなある日、敦が珍しく台所にいる妻に創作の報告をした。「人間が虎になった小説を書いたよ」。何て恐ろしいことと感じたが、後にこの小説「山月記」を読む度に妻は夫を思った。「あの虎の叫びが主人の叫びに聞こえてなりません」

中島敦「何故こんな運命になったか……」/YOMIURI ONLINE 2016年08月08日

 

 しかし、なぜこんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きものの【さだめ】だ。(山月記


 中島の中には虎が生きていたのだろう。抑え切れない猛々しさが彼を原稿に向かわせたのだ。ペンは剣(つるぎ)と化した。その自在な動きの痕跡を我々は読むことができるのだ。偉大な人物は偉大であるというだけで人々を幸福にする。



70年の時を経て、中島敦の遺稿を〝リマスタリング〟
人間の知覚はすべて錯覚/『しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ

行き交う過去と未来/『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
・『ソバニイルヨ』喜多川泰

 ・行き交う過去と未来

時間論
悟りとは
必読書リストその一

「いいから教えてくださいよ。岡田さんは運がいい方ですか? それとも……」
「フン、人生そうそういいことなんてないよ。運がいい人生なんて俺の人生とは無縁だね。ついてないことばっかりだ」
「そうですか。そんな人の運を変えるのが私の仕事です」
「どんな仕事だよ、それ」
「だから、運転手……です。最初から言ってるじゃないですか。私はあなたの運転手だって」
 修一は余計に意味がわからなくなった。
「俺の運を良くするのが仕事だって? 何を言っているのか余計にわからんよ。君の仕事は運転手だろ? 客が連れて行ってほしいところに車で連れて行くのが仕事じゃないのか?」
「違います。運を転ずるのが仕事です。だから私は、岡田さんが連れて行ってほしいところに、車を走らせるわけではありませんよ。岡田さんの人生の転機となる場所に連れて行くだけです」

【『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2019年)】


 amazonレビューワーの評価を時折参考にしている。ただし星の数が多いからといって良書とは限らない。「お前らの目は節穴なのか?」と嘆くこともままある。

 本書は運を巡る物語である。凝った構成で未来から現在、そして現在から過去、更にもう一度現在から過去に戻って終わる。芸術とは人が想像したものを形にする作業だが、「思えば成る」というのは唯識のテーマでもある。人は「出来る」と思ったことしかできない。四十不或は今までやったことのないことに対する挑戦の気概を示した言葉である。老いとは「出来ない」ことを受け容れ、できなくて当然と思い込む心に始まる。

 自分が生きる狭い世界にも無限の可能性がある。ほんのちょっとしたきっかけで運命は転じ幸福の扉は開く。「そのためには上機嫌でいること」と運転者は説く。そして「誰かの幸せのために自分の時間を使う」こと。つまり自分の心を開けば転機はどこにでも転がっているのだ。

 もしも親の思いから祖父母の気持ちまでが完全に見通せたとしたら、我々の生き方は今と同じものではないだろう。まして父祖があの戦争をどう戦ったかを知れば、漫然と景気が上向くことを期待しながら無責任で自分勝手な日々を過ごすこともないだろう。

「孝」の字は老いた親を背負う姿に由来する。


 ホモ・サピエンスが登場したのは20万年前に遡(さかのぼ)る。重畳(ちょうじょう)たる歴史を思えば孝の厚みも地層のように増しそうなものだが、世代を重ねるごとに皮膜のような薄さとなっている。孝には「亡き祖先をも背負う」意味があるという。生命の連続性にまさる不思議はない。今生きている人は皆、遺伝的な勝者だ。先祖を辿れば40億年前の生命誕生にまで至る。受け継がれた生命のダイナミズムを父と祖父の生きざまから照射したドラマである。

 12月に本書を読み、その後喜多川作品を8冊読んだ。いずれもローからセカンドのギアに時間がかかるのと、登場人物のネーミングがよくない共通点がある。尚、駄作と判断したものにはリンクを貼っていない。

敗戦の心情/『ビルマの竪琴』竹山道雄

『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄

 ・敗戦の心情
 ・「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや

『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その一

「国が廃墟(はいきょ)となり、自分たちの身はこうした万里(ばんり)の外で捕虜となる――。これは考えてみればおどろくべきことだ。それだのに、私は、これはどうしたことだ――、とただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)するばかりである。それをはっきりと自分の身の上に起こったことだ、と感ずることすらできない。ただ手からも足からも力が抜けてゆくような気がする。
 そのうちには悲しい気持もおこってくるであろう。絶望も、うたがいも、いかりやうらみすらおこってくるかもしれない。すべてはおいおい事情がわかってきてから、考えをきめるほかはない。実は、もうかなり前から、こういうことになるのではないかとうすうすは思っていたのであったが、いざそうなってみると、まったく途方(とほう)にくれるというほかはない。
 いまはただなりゆきを待つほかはない。いまわれわれが運命にさからったところで、それが何になろう。どうしてもさけることができないものならば、むしろそれをいさぎよく認めて、われわれの境涯(きょうがい)がどんなものであるかをよく知って、その上であたらしく立ち直ってゆくのが、むしろ男らしいやり方である。せめてそうするだけの勇気を持とうではないか。
 よくはわからないが、われわれはすべてを失ってしまったらしい。自分たちの身の上はみじめなものである。残っているものとしては、ただわれわれが互いに仲がいい、ということだけである。これだけは疑うことができない。われわれが持っているものとては、これだけだ。
 自分たちはこれからも共に悲しみ、共に苦しもう。互いに助けあおう。自分たちはこれからの苦しいことも覚悟しなくてはならぬ。あるいはこのさき、このビルマの国で骨になるかもしれない。そのときは一しょに骨になろう。ただ、最後までできるだけ絶望はしまい。何とかして希望をもってしのいでゆこう。
 そうして、もし万一にも国に帰れる日があったら、一人ももれなく日本へかえ(ママ)って、共に再建のために働こう。いま自分のいえることは、これだけである」
 隊長は言葉もきれぎれにこういいました。みな黙(だま)ってきいていました。
 誰(だれ)もはりつめた気もぬけ、ただぼんやりとしてしまったのです。みな首をたれて、隊長のいうとおりだ、と思いました。
 おもえば、われわれは歓呼(かんこ)の声におくられ、激励(げきれい)されて国を出たのですが、それにもかかわらず、あのころから、国中にはなんとなく不吉(ふきつ)な気分がみちみちていました。いまそれがまざまざと思いだされます。誰もかれも、つよがっていばっていましたが、その言葉は浮(う)わついて空疎(くうそ)でした。酔っぱらいがあばれだしたようなふうでもありました。それを思うと、胸も痛み、恥ずかしさに身内があつくなるような気がしました。
 誰かすすり泣く声がしました。すると、みな、にわかに悲しくなって、すすり泣きました。しかし、それははっきり何が悲しい、何がうらめしい、というのではありませんでした。ただ、このたよりない気持をどうしたらいいかわからなかったのです。

【『ビルマの竪琴竹山道雄中央公論社ともだち文庫、1948年新潮文庫、1959年)】


ビルマの竪琴』は「1946年(※昭和21年)の夏から書き始め童話雑誌『赤とんぼ』に1947年3月から1948年2月まで掲載された」(Wikipedia)。一高(東大の前身)の教師だった竹山は従軍していない。そのため現地などの情報に多くの誤りがあることを詫(わ)びている。

 冒頭に出てくる「歌う部隊」のエピソードは本書を読んだことがない人でも知っているだろう。追い詰められた日本兵が「埴生(はにゅう)の宿」を歌うと、今にも襲いかからんばかりのイギリス兵も歌い出し、合唱となる。


Helen Traubel Sings "Home, Sweet Home." 1946

日本童謡事典』の「埴生の宿」p323-32の解説によれば,「みずからの生まれ育った花・鳥・虫に恵まれた家を懐かしみ讃える歌…」「「埴生の宿」とは,床も畳もなく「埴」(土=粘土)を剥き出しのままの家のこと,そんな造りであっても,生い立ちの家は,「玉の装い(よそおい)」を凝らし「瑠璃の床」を持った殿堂よりずっと「楽し」く,また「頼もし」いという内容。

レファレンス協同データベース


 敗色が濃厚になると日本は無気力に覆われた。欧米と比すれば小さな国である。物資が欠乏しながらも3年半にわたって戦った歴史を軽々しく論じるべきではない。しかも敗れたのはアメリカ一国だけであり、イギリス・フランス・オランダ軍を退けたのだ。

 8月15日を境にして日本はGHQの占領下に置かれる。実に建国以来のことである。わずか7年(サンフランシスコ講和条約が発効した1952年〈昭和27年〉4月28日まで)とはいえ、歴史を裁断するには十分な時間だった。

 日本人の精神は無気力から真空状態に至る。そして敗戦するや否やラジオや新聞はGHQの統制下で軍部を悪しざまに罵った。知識人は掌(てのひら)を返して「戦争には反対だった」と口々に言い始めた。歓呼の声と万歳で見送られた兵士は帰国すると白い目で見られた。

 1940年(昭和15年)にナチスを批判した竹山はこの時もまた強い違和感を覚えた。自分の教え子の訃報に接してきた彼がやすやすとGHQの洗脳に屈服することはなかった。遺骨もなく形見の品だけで弔(とむら)う葬儀があった。形見すらない場合も珍しくなかった。世間が戦争の罪を軍部に押し付けようとした時、竹山はたった独りで鎮魂のペンを執(と)った。児童向けの作品となった経緯を私は知らないが結果的にはよかったと思う。戦後に就学していた人々が左傾化することは避けようがなかったわけだが一定のブレーキにはなったことだろう。

 このテキストには敗れざるを得なかった日本の情況が正確にスケッチされている。「酔っぱらいがあばれだしたようなふう」とあるが、直ぐ後に描かれる「首を切り落とされた鶏(にわとり)がバタバタと動く様子」は戦前・戦中の日本を示したものだろう。天皇責任論に対する静かな批判といってよい。

 誰もが食べることで精一杯だった。そんな中で竹山は戦死者の魂を鎮(しず)めようとした。

ジョルジュ・メリエスへのオマージュ/『ユゴーの不思議な発明』ブライアン・セルズニック


 ・ジョルジュ・メリエスへのオマージュ

必読書リスト

 それ以来、ユゴーは1日中、うす暗がりの中で時計の手入れをするようになった。ユゴーはいつも、自分の頭の中にもたくさんの歯車や部品が詰まっているような気がして、どんなものであれ、手を触れた機械には親しみを覚えた。駅の時計の仕組みを知るのは楽しかったし、壁の裏の階段をのぼって、だれにも姿を見られることなく、ひそかに時計を調整してまわることに、やりがいを感じてもいた。だが食べるものはろくになく、おじさんにどなられ、へまをするたびに手を叩かれ、ベッドは床だった。
 おじさんはユゴーに盗みを教えた。それが何よりいやだった。だがそれしか食べ物を手に入れる方法がないときもある。ユゴーは毎晩のように、声を押し殺して泣きながら眠り、こわれた時計と火事の夢を見た。

【『ユゴーの不思議な発明』ブライアン・セルズニック金原瑞人〈かねはら・みずひと〉訳(アスペクト、2007年/アスペクト文庫、2012年)】


 火事で父親が死んだ。母親は元々いなかった。たった独りとなったユゴー少年はリヨン駅の時計台に住みついた。おじは時計を管理する仕事をしていた。ユゴーはその仕事をやらされた。

 子供に読ませる場合は奮発してハードカバー版を買ってあげたい。500ページのうち、何と300ページほどが見開きのイラストである。ま、一種の絵本だと思っていい。まだ映画が誕生したばかりの時代である。身寄りのいないユゴー少年とからくり人形の物語だ。鉛筆(?)で描かれたイラストが映画のカットのようにダイナミックな構図で読者に迫る。2011年にマーティン・スコセッシ監督が映画化した(『ヒューゴの不思議な発明』)。


 画風にそれほど魅力はない。目を惹(ひ)きつけるのは構図である。父親が遺したからくり人形をユゴーが修理する。人形は自動書記でメッセージを綴り始める。ここから物語はジョルジュ・メリエス(1861-1938年)へのオマージュとなる。




 先に「絵本」と書いた。が、実は違う。イラストは絵コンテであり、無声映画の画面なのだ。既に大友克洋松本大洋を知っている我々でも、映画草創期の歴史を知れば胸に迫ってくるものがある。小説ではあるがジョルジュ・メリエスに関する記述は史実に基づいている。

 ファンタジー的色彩の強い、めくるめく物語の伝統が日本にないのは、やはりキリスト教ヒンドゥー教がなかったためか。天国やブラフマンというイデアへの憧れが書き手の脳内で火花を放つ。それを読み手は花火として鑑賞するのだ。